5月30日(火曜日)「コミュ力」の育て方……ってなんだよ!置いておくだけで役立つ『お・は』97号

  • 2017.05.30 Tuesday
  • 22:03

 

 『お・は』97号が発売された。今回は、「コミュ力」ってどうだ! というような特集です。平田オリザさんとの対談をしました。

 

 どうも、コミュ力というのが「必要だ」と言われつつも、実態がはっきりしない。そのあたりを、様々な視点から特集してみました。コミュ力が「調子のいい奴」の力を意味しているのではないのですが、どうも、即答や即効対処ばかりを期待しているのではないか。そういう力を言っているのか? 疑心暗鬼になります。

 

 実際、コミュ力の高い人って、どんな人? たとえば、会話したり相談したり会議したりして「この人の話を聞いてみようかな」と想う人は、スキルだけじゃないような気がする。じっくりと問いかけに考えて、しっかりと自分の考えや、知っていること、知らないことを、ある程度めんどくさくても伝える人だと想う。だから、不器用な人も、コミュ力があるとかないとか言えるし、基準があるわけではないだろう。

 

 「コミュ障」などという、嫌な、かつ不謹慎な言葉もあるが、それも批判した。コミュ力なんていらんがや!というのが、ボクの論考。

 

 まあ、そのあたりの、分かったような、分かっていないようなことを、いろんな角度から、いろんな人に書いてもらって、切開してみた。

 

 ぼくの連載は、労働論=働き方と格差問題である。なかなか頑張った論考だと想う。自画自賛。

 

 先日、教員の集まりで、話をしたら、「本を読む時間がないんです」というので、それは「読む気がないのだと想う」と言ってしまって、かなりひかれた(笑)。しかし、『お・は』は、万が一読まなくても、とりあえず、そばに置いておくだけで十分に役に立つ本なのだ。全巻そろえておけば、何か難問ぶちあたったとき、背表紙を見て、引き出して使える。

 

 『お・は』は学校・教育百科事典と言って良い。一冊や二冊じゃダメだ。全巻、あるいは、30巻以上ないだめだ。こんきよく集めて欲しい。学校と教育のデ○ゴス○ィーニと読んで欲しい

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    五月二十日(土曜日)学校とコンピューターの「必要」という言い方

    • 2017.05.21 Sunday
    • 11:43

     

     今度の学習指導要領ではコンピューターを使ってのプログラミング学習が盛り込まれている。小学校でも、色々な教科にこのプログラミング学習を取り入れていこうということになっているが、かなり問題があると思っている。

     

     プログラミングそれ自体がダメだということではないし、まあ、言ってみれば世界はプログラミングされているのだと言えなくもない(笑)。しかし、もうちょっと根本的なことを考えてみるべきではないかというのが、私の意識だ。

     

     プログラミングスキルがこれからの社会は必要だし、仕事にもどんどん入ってくるから小さい頃から慣れておくべきだ……というものの言い方は、教育や学校に新しいコンテンツを入れるときに、よく使う常套句である。確かにアルゴリズムが複雑に生活へ持ち込まれてしまっているから、無視することはなかなか難しいだろう。だが、だからといって、なんでもかんでも「必要だ」というのはちょっと待てよ!と思う。

     

     現代のような高度産業社会では、「欲望」と「必要」は作られているということを自覚する必要(笑)がある。つまり、生活の中で「欲望」と「必要」が、強制的に生み出されているのだと。おおざっぱな言い方だけど、こうなる。

     

     まず社会の中で「便利」が生み出される。次に「便利を拒否できない」という形で「便利さが強制される」のだ。もし拒否したらそれは「欠如」としてその人に認識される。「欠如」は放置できないということになり、埋め合わせなければならず、自発的に強制されて、その便利と便利さを補完するものを「必要」とするようになる……というわけだ。

     

    そして私にとってのファイスブックFBについてだが、(あくまで個人的なものでしかないけど)

     

     私は今日からFBを一時停止したのだが、しばらく「FBのチェックをしない」という習慣と闘う(笑)ことになる。少し前までは、FB無しでも何も困らないときがあったわけだが、2013年から使い始め、「友だち」が300人を超えたあたりからFBに対応する時間が増えた。

     

     正直、今現在の自分にとって、FBに書かれていることは、絶対的に必要な内容ではない(もちろん「友だち」が、あげて書いているくる内容に文句をつけるつもりは全くない。「友だち」が書いたことが、いつも自分に興味があるはずだという方がおかしいのだから。)のだが、おもしろかったり、自分も「そういえば」的な感じでコメントを入れたりすることが増えてきた。

     

     「いいね」等のクリックはしなくてもいいはずなのだが、することが多くなる。しだいに、「いいね」とか「うけるね」など、どの選択肢をクリックするかということ以前に、クリックする方がいいのか、しなくてもいいのかという、クリックするかしないかということを判断せず、評価選択をすることが当然のようになってしまった。

     

     また、自分の投稿の「いいね」の数を気にするようになってしまった。本来、「いいね」の数はわたしにとってどうでもよかったのだ。「いいね」が多いとうれしいとか、少ないと残念……などというレベルにはまだ達していない(笑)が、数を視覚にいれることが多くなったということだ。

     

     もう一つ、これはかなり前から感じていたのだが、FBでやりとりしていると「毎日会っているみたいだね」と思うようになってしまったことだ。同窓会で一年ぶり、数年ぶりに会っても、「久しぶり」という感じがしないのだ。これは、いいことなのだろうか?……と思うようになった。

     

     こうしたいろいろな問題。それから、私の場合はメッセンジャーをFBと一緒に使っていたので、最初は便利だなと思っていたが、だんだんメッセンジャーでのメールが増えてくると、返事に時間がかなり取られる。しかも、即レスは無理と言いつつも、できるだけ早く返信しなければという「意識」が出てきてしまって、PCにしばられるから、自分にはあっていないなと思うようになった。この便利さが忙しさを増加させていることに、今更ながら気づき、確認できた。ということで、しばらく停止。

     

     まだFBのアカウントは残したままだが、しばらく、あるいは、ずっとFBは停止である。

     

     

     

     

     

     

     

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      4月24日(月曜日) 女親論議:宮台真司さんと尹雄大さん、そして私

      • 2017.04.24 Monday
      • 22:26

       

      先日の『お・は』『ち・お』で開催した宮台さんと尹さんの講演会、実は、正式には「『お・は』公開取材講演」のようなもので、尹雄大さんが宮台さんと話をしながら、聞き出すという形をとっている。それが五回目。

       

      「女親と娘」の話、「女親と息子」の話。それぞれからはじまった。宮台さんは冒頭「今までのような家族、つまり一般的にイメージされるような家族はもう望めない」と言う。これは、いわゆる父母子ども2人で、アパートあるいは一戸建てに住んでいるような近代家族のようなことだと思うのだけれど、私たちが家族を語るときに、無意識に前提としていたり、「望ましい」と仮定しているような家族だと思って良いだろう。

       

      このことは、かなり重要なことで、いまどき家族と言ってもいろいろな形があるし、構成員だって、いろいろだ。これを昔に戻そうとするのが今の家族支援法みたいな安倍晋三が一生懸命「再生」させようとしている家族だ。まあ、「昭和の記録」くらいにしか出てこなくなった家族だ。むろん、そういう家族がいいとか悪いと言っているのではなく、現実的にはそんな非常に少数で、絶滅危惧種的だという認識が必要だと思うのだ。

       

      さて、女親と娘、女親と息子の宮台的な展開は、ぼくが予想したようにはいかなかった。まあ、自分自身が通俗的だったということにすぎないのだが……(笑)。尹さんとの事前打ち合わせでは、「母が重い」娘の話や、息子に自立を促しながらも、片方でいつまでも「外」へ出さない女親の「ダブルバインド支配」の話をしようとしていたが、すぐに、宮台さんは、そのあたりはあまり触れずに、それはお互いが自律していないだけの話だろうねということになった。おそらく宮台さんは心理学的にラカンやフロイトを念頭に入れて、すでに整理しており、あまり興味がわかなさそうだった。

       

      それよりも、最近の子育てに関わる、宮台さんの連れ合いさんとのトラブルについての話になり、結果的には、今日の話は、そっちから切り込んでいくことになった。その内容についてはプライバシーに配慮(笑)して詳しくは書かないが、いろいろな子育てトラブルの根っこには、圧倒的に子どもに近い女親と子どもの間にどうやって「社会」を入れ込むかということに尽き、価値観を一様にせず、揺らぎの中に子どもをおくことが重要だと述べる。そして、その「社会」を入れ込むのは、父親とは限らず、斜めの人間関係も重要だと指摘する。つまり、近所のおっさん・おばさん等々である。

       

      今時、こういうおっさんやおばさんは「安心安全の敵」のように思われがちだし、なかなかいないけれど(こちらも希少価値が高い)結局は、子どもにとって一番重要な社会性=未熟さからの脱皮力を育ている要なのだと私も思う。「規則は破るためにある」と子どもに教えるという宮台さんの論理は、同時に、どの程度までそれが許容されるかとか、行きすぎないかとか(これは、あらかじめ決められた線などない)を身をもって理解して判断力を身に付けるという課題が付随しており、かつ避けて通れないことだと論じる。

       

      なかなかうまくまとめられなかったが、なんだか、いつもおもしろい宮台さんと尹さんだった。

       

      はじめに私自身が予想した「女親の厳しさ」を差別とかフェミニズムとは若干違った角度から考える話だった。

       

       

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        4月12日(水曜日) 自然の環境に人間は「勝利」できるか?

        • 2017.04.12 Wednesday
        • 13:29

         

        今年も、今週末から、小学校で理科を教える。毎年、最初の授業では、自己紹介の後、おもしろい実験やお話をしながら、「科学」とか「理科」は一体何を勉強するんだろうね?と問いながら、しばらく楽しむ。

         

        5年生は「天気と雲」、6年生は「燃焼」の学習から始まる。ところが、昨年は、九州で地震が起き、前震や本震が報道され、阪神淡路や東日本とは異なる揺れ方や被害の状況に頭が混乱した。

         

        すぐに地震のことを教えるべきだと思い、データやリアルタイムの熊本の状況を知らせながら(熊本日々新聞を一ヶ月購読した)、「地球と自然」というテーマでも授業をした。

         

        こうした自然の災害があるたびに自分自身が学習し、それなりにどんどん知識や研究成果を知ることになる。そして、意外と自然というのは分かっていることが少なく、予測や将来のことになると、とんでもなく分からないことばかりである。

         

        子どもが「先生、私たちの地域には南海トラフがやってくるって言われていて、おばあちゃんの所には津波も来ますが、防ぐことはできないんですか?」と聞く。こうした素朴すぎる質問が、一番きつい。

         

        人間の歴史は、自然との闘いの歴史だと言われるが、なかなか自然に勝利することはできない。なぜなら、自然を破壊することは、人間も破壊されることになるからだ。自然環境の破壊は、人間の自滅行為でもあると歴史は教えてくれる。じゃあ、震災や洪水に「負け続けてもいいのか?」と言われれば、そうはいかないぜ、と断固思う。

         

        「自然との調和」というと、聞こえはいいし、のどかな自然ならそれもいい。しかし、自然災害にはどう対応したらいいのかという反問に正解はないだろう。子どもたちと、考えれば考えるほど行き詰まってしまう。

         

        いままででも、被災したみなさんにかける言葉が見つからないのだが、自分の経験から言って、子どもたちが元気なうちは、大人だってなんとかなると思っている。もちろん、子どもといっても、自分の家の子どもだけでなく、地域や学校の子どもたちも含めてである。生活の立て直しを、すぐに見通せないとしても、未来に生きる子どもたちのためになら少しは踏ん張れると思うのだ。

         

        原発や地震の避難が続いている今、不安で気持ちの落ち着かない子どもたちや、障害のある子どもたちの心細さはいかばかりだろうか。察するにあまりあるけれど、今こそ学校で友だちと笑顔を!と思う。

         

        原発を、まだ再稼働しようという、気持も理屈も分からない……というか、輸出までしようという発想は、どう考えても、「どうなっても知らんよ。責任なんか取るつもり無いから」ということなんだとしか思えない。ミサイルとかサリンとか難民排除という他の国を非難できるような日本ではないと思ってしまう。

         

        K201605

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          4月7日(金曜日) 教科書を教えるってか……??

          • 2017.04.07 Friday
          • 23:36

           

           子どもたちは、新学期に、ぴかぴかの教科書や練習帳を手に取ると、今までの、勉強のつらさも忘れて、学習への気持が高ぶってくるようだ。

           

           私は、新しい教科書を使うとき、いつも表紙の開き方からはじめる。表紙の折り線に爪をあてて、しっかりと、かつ、ていねいに開くのだ。中のページも繰るたびに真ん中に折り目をつけることは低学年のころからやっておかないとクセがつかない。

           

           名前もできるかぎり自分でしっかり書いてもらう。練習帳などは友だちが配ってくれることもあるから、名前の漢字に読みの難しいものがあれば、読みがなをつけてもらう。表紙の絵や図、表紙の裏や目次などもていねいに読んでいく。これから半年、あるいは一年間付き合うことになる教科書は大事にするというよりも、使い込むために丁寧に扱おうということだ。

           

           子どもたちに教科書の値段を伝えることがある。「全部で三千円から四千円するんだよ」とか、「理科の教科書は956円だ。そのお金はみんなのお家の人たちが払っている税金から出ているんだ」などと話す。「なくしたり、汚したりして新しく買うのは大変だからね」と使い捨ての文化の中では、若干説教臭くなるが、これも教師の仕事と考え、話すことにしている。

           

           昨年は教科書の出版と採択に関わる「不適切謝礼」問題が各地で起きていた。もう、わすれちゃっているだろうけど。当時の報道によれば全国どこの地域でも多かれ少なかれあるという。もともと、教科書は学校独自で選択していたものが、教育委員会が地域で広域に採択し、決めることになっている。

           

           教科書会社にしてみれば商品だからたくさん売りたいし、少しでは赤字になる。それは十分に理解できる、しかしホンネでは「以前は、現場の先生たちと話し合っていたんですが、今では、文科省の検定に通り、教育委員会に選んでもらうことに必死なんです」ということらしい。

           

           本来なら、教科書は子どもたちの声も聞きながら、現場の教師や親と創ったり、選んだりすべきだ。少なくとも各学校で裁量されるべきなのだ。責任を負うというのは、自分の為すべき事をはっきりさせることなのであり、教師ならば、どんな材料を使って、どう教えるか自らが決めることだろう。与えられた教科書「を」教えていれば責任を果たしたということではないと思うのだ。

           

           先日の道徳の教科書(これ自体が、はぁ?の世界なんだけど)で、和菓子屋さんとパン屋さんの問題があった。いろいろ論議はあるし、批判されて当然なんだけど、その文科省の付帯意見(これは、隠れた強制的な意見なのだが)のレベルの低さに、どん引きした。ただ、しょせん、教科書なんて、こんなもんなんだろうなと思ってしまう。
           だから、いくら「良い教科書」であろうと、中身をよく吟味しながら、教科書「で」教えなければ、教師とは言わない。「検定済み」であろうと、「なんでもかんでも教科書どおりに教えます」では困る。それは、たんなる「検定教科書ソフト」のロボットにすぎない。

          K201604

           

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            4月5日 ことの重大さをどう伝えるか?

            • 2017.04.04 Tuesday
            • 14:20

             

             ある日、子どもが万引き事件を起こし、親から「どうしたらよいか」と電話があった。担任していた子どもの友達のお母さんだ。しかも、今の勤務校ではない。「なんで、ぼくなんですか?」と聞きたかったが、親はそれどころではない。そうとう焦った感じが受け取れる。

             

             「学校へは電話した?」と聞くと、していないという。お店も、「学校には連絡しません」と言っているらしい。基本的に学校は関係がないのだが、連絡するかしないかは、親が、今度、子どもとどう接するかということにも関係する。信頼できる教師なら、連絡しておいて、今後、気になることがあれば教えてくださいと協力を依頼できる。

             

             とりあえず、子どもを連れて早く謝罪に行くことを薦める。「お金を払えばいいんでしょうか? 警察沙汰になってしまうのでしょうか?」と聞かれたので、いやいやお金だけの問題にしちゃだめだよと話し、警察に通報するかしないかはお店の判断だからねと伝える。話しているうちに、そのお母さんは泣き出し、「こんなはずじゃなかった、一生懸命育てたのに……」と言う。

             

             確かに、今まで何事もなく順調に育ててきたつもりの子どもが、こうした触法行為をすれば、親はびっくりする。情けない気持ちになり、うろたえて、世も終わりかという気分にもなろう。しかし、親としてはここが勝負所だ。親の面子よりも子どものこれからだ。めげてもしょうがない。

             

             うろたえる親を子どもが見て、「悪いことをしてしまった」と思うか、「何、あわててんの」と親を見下すかが一つの分かれ道だ。大抵の子どもには、あまり罪の意識はない。「まずいことやったな」という気持ちはあるだろうが、親が考えるほど「大変なこと」だとは思わないことが多い。だから、ことの重大さを子どもに知らせる必要がある。そのためにも、店の人にきちんと謝らせ、親も謝罪しているところを子どもにも見せなくてはならない。

             

             叱ることももちろん必要だ。しかし、これで終わりではない。二度三度とくり返すこともあるだろうと頭に入れて置かなければならない。一度で止めてくれれば、こんなうれしいことはない。しかし、またやるかも知れないと、ちょっと心の隅に止めておく必要がある。

             

             そして、二度目も、また同じように親子で謝罪をしに行けばいい。「何度言ったらわかるんでしょうか?」と母親が聞くことがあるが、「何度言っても分からないかも知れませんが、でも、何度でも叱り、説諭するべきです」と応えた。子どもは叱られてはじめて、親も怒っているということが徐々に理解できていく。「何度言ったら分かるの!」と言わずに、「何度でも何度でも言うよ」と根気よく付き合うと断言すべきなのです。

             

             でも、こういう困っている親を見て、「日ごろの育て方に問題がある」なんて、偉そうに言う親は、正直私は、苦手である。Ku20162

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              3月30日 「めんどくさい」ことについて

              • 2017.03.30 Thursday
              • 22:32

               

               春休みになって、直接間接メール電話等々で、相談事が入ってくる。ほとんどが、教員。悩み多き時代なのだ。心療内科に通っている人がほとんど。通った方が良いんじゃないかと思う人もいる。昨日は「新学期の授業や学級の進め方」という非常にわかりやすい相談だったのだが……。こういうのは話がはやい。

               

               悩み多き人の話を聞いていると、「人のせい」にしているひと、「社会のせい」にしているひと、「自分のせいにしているひと」と色々いる。もちろん自己責任でなんでも片付くことはないし、理不尽な自己責任は困る。けれど、それでも、限界を知りつつ、自分と向き合っている人は、前向きになっていく兆しが見える。「嫌なことは忘れたいけど、忘れるのも悔しいから、自分の至らなさと考えて、甲殻戦隊なみに強化していこうと思う」と笑いながら言う人もいる。これは二重丸。おそらく、時間がかかってもリセットできる。

               

               11月頃の転勤希望時期に「転勤したいけどどうでしょうか」と言ってきた人もいる。しかし、転勤してもその人の気質はなかなか変えられないから、起きている問題によっては、賛成しないこともある。しかし、今の緊張感や不快感からは逃れられるので、やってみる価値は大いにある。だがしかし(しかしが多いな)、それは「人のせい」だけだと思っているとダメだろうと思う。

               

               そんなとき『名前のない生きづらさ』(野田彩花・山下耕平:子どもの風出版2017年3月刊)を読んだ。不登校の野田さんと、野田さんが居場所の一つとしている「なるにわ」と、そこのNPO事務局長の山下さんで作った本だ。山下さんは私が尊敬するフリースクールの先達で、自分の編集する雑誌にもいくども書いてもらっている。野田さんも最近、そこにデビュー?してもらった書き手である。

               

               野田さんは、自分を見つめるという作業というか、生き方を意識しているのだけれど、結局不登校とか発達障害というような名前でくくれない自分を発見する。山下さんはそれを「やさしく(たぶん)見ている」人だと思う。なかなか味わいのある本だった。おそらく、人間というのはめんどくさい生き物なのだが、そのめんどくさいことから自分自身は逃げられないのだなと思う。めんどくさい他者からは逃げられるけれど、自分からは逃げられない……とそんなことを読みながら思った。

               

               私に相談に来た人たちは、みんなめんどくさい人だろうと思う。私も話していてめんどくさいと思うことがよくある。しかし、そういうめんどくさい人が世の中には必要なのだろうと思うし、めんどくさくない人なんていないだろう。だから、答えを見つけるとか、指示するとか、指導するとか、偉そうに分かったように振る舞うとか、そういうことさえ期待されなければ、ゆったりと話が聞けるし、私も自分の意見が言える。

               

               相談にのったり、話を聞いたりしたあと、自宅へ戻ってコーヒーを入れながら、今日の話はどうでもいい話だったなと思えるときもある。つくづく「みんな自分自身のことは分からないのだなあ。なのに私に聞かれてもなあ、分かるわけないしなあ」と笑えてくる。ふと、洗面所へ行って、自分はどんな顔をして話をしていただろうかと鏡をのぞき込む。すると、そこに母親の顔が写っているので、今日の相談のことなどすっかり忘れて、顔だけでなく、母親のめんどくささも受け継いだかなと不安に思う。だがしかし、私は、だれにめんどくさい相談すればいいのだろうか。私のようなめんどくさい者の相談をだれが聞いてくれるだろうか。「めんどくさい」の歌 → クリックして聴きましょう

               

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                3月21日(火曜日)イソップ物語「金の斧と銀の斧」その後 岡崎バージョン

                • 2017.03.21 Tuesday
                • 22:56

                 

                 イソップ物語にある「金の斧と銀の斧」のその後の話を知っていますか? 正直に鉄の斧と言って池の女神から金の斧をもらったきこりAとうそをついて自分の鉄の斧も返してもらえなかったきこりB……のその後です。

                 

                 金の斧を女神からもらった正直者のきこりAと、結局自分の斧も池から拾ってもらえなかったうそつきのきこりBは、友人のきこりCとお茶を飲みながら、今回の出来事をリフレクション(ま、反省ってことね)していました。

                 

                 二人と話しているうちに、きこりCは、だんだん腹が立ってきました。安易に金の斧を与えたり、ちょっとした嘘くらいでカッとして斧を取ってやらなかった、上から目線、通俗的で意地悪な女神の本性を知りたいと思いました。

                 

                 Cは「Aは別に正直者ではなくて、当たり前のことを言っただけで、それをさも立派だと言わんばかりだし、だいたい、最初から鉄の斧だって分かっているのに、金の斧でためそうとする、その根性がいやらしいじゃないか。

                 

                 それに、Bだって、鉄の斧が金の斧になるのなら、彼にしてみれば、そんないい話はないし、Bの家族も可処分所得が少なくなっているのだから、だれにも迷惑かけずに交換できるのだから、良いチャンスだと思うのは、人間ならあたりまえだ。それに、だいたいこの程度の嘘なんて『それは違うよね、こっちの鉄の斧の方でしょ、これから嘘ついちゃだめだよ』って諭すのが、神たる者の寛容さではないか。鉄の斧を返してもらえないBの気持ちが全く分かっていない。格差社会のリアルさが、神なのに理解できないのだな。なんかちっちゃいよな」と憤りました。

                 

                 そこで、Cは、ありったけのお小遣いで買った金の斧を、その例の池に投げ込んだのです。するとどうでしょう、しばらくしても女神が出てきません。そこで、「私の斧を持ち逃げする気か!」と怒鳴りました。

                 

                 とたんに女神が失礼な!と水面に浮かびながら、「あなたの斧はこの鉄の斧か?」と聞きますので、Cは「その通り、私は鉄の斧を落としました」と言いました。女神は大変困り、苦笑いしながら「いや、金の斧でしょう」と言うので、「いえいえ、鉄の斧です」とCは主張します。

                 

                 すると、女神は「いや、あなたは神である私が嘘をつくか試そうとしているのですね」と聞くので、Cは「ちょっと違うな」と言いました。しかし、女神は繰り返し「やはり、あなたは金の斧を落としたのですよ。間違えないでください」とちょっと怒っていいました。

                 

                 Cは大声で言いました「あなたは、どんな斧を落としたか、答えを知っているのに、AやBを試そうとしたでしょ。最初から、人間は欲深だという先入観がありますね。

                 

                 鉄の斧と分かっているのに、金の斧など出して……嘘をついているのは、あなたの方が先ではないか。あなたこそ、もっと素直に、落とした斧をそのまま渡してくださればいいのです。すでに、分かっていることを、なぜいやらしく質問するのですか?」とCは怒りを込めて言いました。

                 

                 すると、女神は「もうしわけありません。元教師なので……」と小さい声で言いながら、池の中に沈んでいきました。それを池の周りのしげみの中で聞いていた 小学校非情禁講師の岡崎センセは、自分のことのようにひどく落ち込んだのでした。

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                  2月25日(日曜日) テストの○と×について

                  • 2017.02.26 Sunday
                  • 12:35

                   

                   子どもたちは私たち大人のまねをする。いいこともわるいこともまねをする。だからなかなか叱れない。昨今、「大人の態度があいまいなのはダメだ、良いことと悪いことを区別してしっかりと叱るべきだ」と、自信をもった顔と声で言われる。しかし、私は、どうもそれが苦手である。子どもの前に立つと、大人を前にしたときにくらべ、迷いがいくつも生じる。なさけない、軟弱なのだろうと思うが、どうしようもない。

                   

                   テストは作るのも採点するのも嫌いである。自分が小学生のころは、それほどひどい点数を取ってこなかったが、それでも高校生になると悲惨な点数で、及第点やっとのことが多かった。学年順位などがご丁寧に出されて、三桁だったことが一度や二度ではない。学年で135人中ということだ。だが、親は何も言わなかったし、叱られたこともない。それがありがたかった。

                   

                   かけ算を教えるとき、「一個20円のリンゴを5個買うといくらですか?」という問いに「5×20=100」と書いて、×をつけることがどうなのだ!という意見がネットなどでも話題になっているらしい。×をつけることの是非よりも、私なら……と考える。式には意味があるから、答えさえあっていればいいだろうとは思わない。ただし、本来はこれを×や○の二択で終わらせていいのだろうかということだ。

                   

                   教えるという行為は○の数を増やすこととは違うと思っている。私は、かけ算を「1あたり量×いくつ分」と教えてきたから、「20円×5個=100円」と書くように指導してきた。もちろん、単位をつけるように指導するのだ。でも上記のような間違いがあったとしても×でなく、説明をするべきだろうと思う。それで、たぶん○にしたと思う。

                   

                   こうすると、「教えたことと違っていても○ですか?」という人も出てくるが、教えたことと違っていても、考えることはいろいろあっていいし、それをお互い(先生と子ども)で説明したり、反論したりしながらすすめればいいのではないかと思う。あえて言うが、○でも×でも、どうでもいい。そう考えて今までやってきた。その○や×にこだわることはないと思うのだ。むろん、子どもがそれにこだわるのは子どものせいではない。○や×にもいろいろあるのだ。×や○の中には、「可能性を秘めた×」と「安易な○」というものもある。

                   

                   漢字の書き順などでもそうだし、はね・はらい・とめも同じだ。「許容」という考え方もあるが、大きく言えば、人間の文化に普遍性も絶対性もない。最近では「的を得る」もいいんだよという国語辞典も出ているらしい。「的を射る」だろうと思っていたが、それも絶対ではないようだ。まあ、「やばい」が「いい感じ」という意味でも使うんだから。

                   

                   テストを返すとき、答えを説明した後、かならず「採点間違いや、この答えはどうかとか、いろいろあるだろうから来てください」と言い、「一週間くらいは受け付けるから、じっくりまた家でも見直してね」と付け加えてきた。

                   

                   記号で記入の問題を示して、「これは、ケと書きました」というので「これはクとしか読めない」と言って突っぱねると、「そんなぁ、先生、ケと読めますよ」というので、「これは、正しいとか間違っていると言う問題ではなく、社会性の問題ですね。多くの人がケと読めるかどうかです。(ケとクの書き方を板書で説明して)あなたはどう思いますか?」と聞くと、ほとんどは「分かりました」と言うので、「じゃあ、今回だけ、特別ですが、次のテストから、丁寧に書いてくれると、あなたも分かってくれたので○にします」と○をつける。私はそういうふうにやってきた。

                   

                   正しいか間違っているかを、それほど断定的に自信を持って教えることはできない。受験用ならまた別なのだろうが。

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                    2月18日(土曜日) 宮台さんの連続講座 第4回

                    • 2017.02.18 Saturday
                    • 18:09

                     

                     昨日の土曜日は町田の鶴川で『お・は』「宮台真司:男親の社会学」連載のための公開取材という連続講座。30人ほどの若い人から初老(笑)まで、男性もたくさんでもりあがった。

                     

                     事前30分の打ち合わせで「今日はどうしましょう」と宮台真司さんと聞き手の尹雄大さんで話し合う。と言っても聞き手である尹さんが一番の大変。ぼくは司会だし、適当に口を挟むだけなので気がラク……と言うと尹さんに叱られるか。

                     

                     宮台さんの話は「難しくおもしろい」と言われる。宮台さんの思考スピードについて行く快感もあるが、そのときメモした言葉で、自分の創造力でまた考えるのも楽しい。

                     

                     今回は、「風景の違いを想像する力」ということが宮台さんから出された。つまり、政策の一つ一つにしろ、論議する中で出てくる意見や企画について、それが街の景色をどう変えるか、あるいは、自分の立ち位置をどう変えていくかを想像できることが重要で、今のようなトランプ現象を支える意識にはこの「想像する力の消失」つまり「劣化」があるのだということだ。それを加速化させているのが、メディア操作だ。

                     

                     もう一つ、「昭和の家父長制大好きオヤジ」は結局、男に絶望した妻や娘が育ててしまったのではないかという話。これは、確かにそうだよなあと思った。

                     

                     この講座の詳細は『ち・お』や『お・は』の定期購読の人に特別サービスとして配布される。そのことを知りたい人はジャパンマシニストにご連絡を→営業になりました。

                     

                     この公開講座の後、何人かの参加者とお茶を飲みました。いろいろと質問したり、されたりして楽しく過ごしました。しかし、それに参加していた一人のお父さんに、淡々と家事や育児をしつつ連れ合いとの関係も構築するという「力強」さを感じました。

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