3月14日(土曜日)新型コロナ休校と3.11「大川小学校」を考える(前の続き)

  • 2020.03.14 Saturday
  • 12:12

 

 休校中の学校は、さまざまな状況変化があり、子どもや親だけでなく、教職員もそうとう混乱している。毎朝の職員打ち合わせの時間にメモが配布され、その日の予定が配られるが、前日に決めたことが変更されたり、修正が加えられたりする。そのつど、論議が起きて、そうとうつまらないやりとりもあるようだ。

 

 ボクが知りうる限りの話だから、全国どころか名古屋や愛知でも違いがあり、上意下達とは言え、これほど多様な学校状況も珍しいのかもしれない。子どもたちを比較的自由にしようという学校もあれば、二メートル間隔で私語禁止、黙々と自習という学校もある。

 

 少しでも楽しく学校で過ごせるようにという気持ちがある学校と、とにかく管理大好きの上意下達しか、ダメダメ岩石のような先生の多い学校との差は大きい。なんとかしたいと思うのは普通で、具体的にできることを探すというのが、筋論。先日も散歩していたら、以前教えた子どもたちが自転車で寄ってきて、「オカザキセンセ、退屈でたまらん、学校はじめてよ!」と言う。

 

「ボクが総理なら……今の総理はまずいけど……絶対安全と完全な保障はできないけど、子どもの免疫力が落ちてしまうから、すぐに開校しましょう」というだろう。「責任は!」と言われたら「前の安倍も責任とらないし……前例踏襲」とか言うかも。休みも長いと退屈になるのは大人も子どもも同じだろう。だが、問題は親たちや生活基盤そのものが崩れつつあるのだ。リスクなしの管理なんてあり得ない。

 

 先生の子ども監視活動もさかんで、盛り場じゃない、賑やかな商店街やモール街へ監視をしに行ったり、家庭訪問したりしておとなしくしているかを点検活動しているらしい。いったい、どうしろっていうのだろうか。子どもに「早くうちへ帰って、じっとしておれ!」とでも言うのか?

 

ボクだったら、「子どもを見てきます」とか言って、公園や広場のベンチに座って、ボーッと子どもたちの遊んでいる姿をみているかなと思う。静かに見守る…ということで。教科書にとらわれない勉強もやり放題。学校に来ているなら、せめて運動場で自由に遊ばせたい。ところが「2メートル以上近づくな」などと言って遊ばせる???なんてことはできないから、自由で、いいんじゃないか。鬼ごっこはタッチしていいですか?なんて話もあるらしい。

 

「オカザキセンセみたいにして、それで、感染したらどうするんだ」と言われるかもしれないが、とりあえず熱も平熱、体調も悪くなく、手洗いうがいと、マスク(エチケットね)していて感染するんだったら、しょうがないだろうと思う。絶対感染させるなというなら、一切の外出は禁止だってことになるし、大人だって同じレベルだからね。それはどだい無理な話だ。できる感染予防と、できもしない感染予防がある。みんなで責任を取り合い、分け合うしかない。

 

 最近、特に強く思うのは「他者が得をすると、自分は損もしていない立ち位置なのに、『あいつだけ得をしてる』と怒り、感情をいらだたせる」そんな人が目立っている……ように思う。子どももそういうことをよく言う。忘れた子に赤ペンを貸すと、その子に向かって「せこい」「ずるい」という。つまり、「忘れたんだから、なしで我慢すればいいのに、ぼくはちゃんと忘れずにもってきたんだから、もってきて損した、ずるいよ」ということだ。

 

 親(=社会)の小さい頃からの子育ての「効果」だとは思いたくないが、「忘れて困っている子を助けるのは当たり前じゃないの」ということがなかなか常識にならない。何かしら「忘れた方が貸してもらえるし得するからラッキー。これからも忘れようぜ!!」と思っているんじゃないかと悪魔の推察をするのだろう。この考え方は昔から、教員には多かった、確かにね。でもね、忘れて「困っている」、それが原則。貸せないものもあるけれど、「貸せるのなら貸そうよ」と思うほうが住みやすい。

 

 いつも忘れものをして隣から借りている子がいたら、「君さあ、貸してもらってお礼を言ってよね。 貸してあげている隣の子もそれなりに困るんだよ。君を嫌いになっちゃうこともあるんだよ。大人は借りたものの借りはお礼を言って必ず借りを返すというのが基本だぜ。君も大人になっていくんだろ、そろそろ、努力して忘れないようにしてくれよ」と指導や注意のバージョンを上げていけばいいのだ。もちろん注意したらすぐに効き目が出るなんて思わないのが原則。

 

 書写の用紙などもそうだ。「書写用紙は家から持ってくる」というのを原則としている学校と、3枚は学校で配布するけど、足らないと思う人は自分で用意しなさい……という学校などいろいろだ。日本は、公教育なのに、基本的に学校は個人使用のものは個人負担の原則があるけどね。まあ、ボクは自分の学級でやるとき3枚は学校で買った書写用紙を配布していた。余分に用意して、交渉しだいでおまけをしてたけど。

 

 「困っている子には手を差し伸べる、みんなで助け合う」というのと、「それは自分でなんとかしなさい。なんとかできないなら我慢するべき」というは、相互扶助論と自己責任論ということになる。しかも、それに平等論が重なるから余計面倒になる。

 

 休校で学校に来た子に勉強を教えればいいじゃないかとボクは思ったが、先生たちに聞くと、「学校では来校する子と家にいる子が不平等にならないようにしなくてはいけないので、学校に来ている子だけに勉強を教えると言うことはできないのです」というムードが支配的らしい。やれやれと思う。で、休校中の学習や課題は、家庭の自己責任にゆだねるわけでしょ……これってなんだかなあ。そういう人に聞きたいんだけど、毎日休まずに学校へ来ている子どもが「毎日登校しているのに、勉強ができないんだけど、どうしてですか?」と聞かれたらどうするんだと思う。できふできだけは「不平等」に鈍感ですな。勉強のできふできだけで学校の意味や意義を語るのはやめた方がいい。

 

 この問題は福祉政策ではメイン課題の一つにつながるのだ。

 

 閑話休題。コロナ休校も、自己責任論に終始すれば、「あいつが悪い、こいつが悪い」の他責感による他者排斥、他者攻撃そして、恐怖増大に結びつく。恐怖の増大はさらに他者を攻撃し離反させる。

 

子どもたちも登校したらそれなりに面白かったということでいいし、親だって「仕事に出かける親が、子どもを学校にあずけておいてだめじゃないのか」という親の責任論に抑圧されず、自分を苛む必要もない。

 

 学校や家庭それぞれの場所で、まず自分の頭で考えることが本当に重要なんだよ。そして、人の行動や動きは、常に助け合うとか支援し合うという社会性を帯びるのだし、それが常識になってほしいと思う。石巻市大川小学校の教訓(学校というより教職員一人一人の判断が問われるとき)が本当に生きていないのではないか。今こそ、学校の3.11なんだ。同調圧力に抗していかないと!

  • 0
    • -
    • -
    • -

    PR

    calendar

    S M T W T F S
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    293031    
    << March 2020 >>

    selected entries

    archives

    recommend

    recommend

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM