8月21日(月曜日) 夏休みのあと10日を残しての反省

  • 2017.08.21 Monday
  • 16:07

 夏休みもあと10日足らずになっている。私は、正規でなく非情禁なので、9月も上旬は休みである。もちろんノーワーク、ノーペイである。今年の夏を振り返ると、クビが痛い。

 

 7月の下旬までは、長めの原稿がいくつかあったが、月末の浜田寿美男さんとの対談が楽しかった。「発達」とか「成長」とか普通に使っているのだが、その本質は何か?という格調高いが、大切な話である。京都のカライモブックスで30人くらいの読者や「野次馬?」が来てくださって、大変盛り上がった……ような気がする。本をたくさん買ってくださった方が多かった。しかし、京都も大変熱かった。夜は、京都に住んでいる息子夫婦と食事をする。

 

 8月初めから、福島からの保養に来てくれた子どもたちと、お勉強や遊びの毎日だった。途中に子どもの貧困についての対談もあったりしたが、福島の子どもたちと読書感想文を一生懸命書いて……それなりに勉強になった。

 

 今年は、課題図書を選んで書こうということにした。私は小学校の課題図書をいくつか読んだが、おもしろいものが多く、「今年は」収穫だった。良い本が課題図書になるとは限らないし、私の憶測では、おそらく、出版社の順番だと思うけれど、たいては「なんだかなあ」という選定の印象だったが、今年はおもしろかった。

 

 しかし、おもしろいからと言って「読書感想文」が書けるわけではない。昔も今も、「読書感想文の書き方」という本がたくさん出ているが、それを読んでも簡単に書けるわけではない。それはそれでけっこう大変なのだ。やはり、子どもと一対一で、いろいろと話をしながら書く方がてっとりばやい。子ども自身のボキャブラリーが不足していると、ある程度教えてあげないと書けない。このあたりは、私はそれほど楽観的ではないのだ。

 

 福島の子どもたちが帰ったあと、孫たちがやってきた。1週間滞在。使い古しのカレンダーの裏に日程や計画・課題を書き込んで、孫たちに提示し、賛意を得た。毎日とにかく淡々とすごそうと思った。四年生の女子と、年長の男子であるが、二人とも個性的で、しかも真反対のような性格気質なので、昨年まではケンカがたえなかったが、今年は、ケンカも少なくなった。じいじとしては、とにかく出かけることを中心に活動した。午前中は勉強しなさい!と正しい(笑)生活をさせながら、飽きると30年近く前、息子の使っていたプラレールを出してきたり、トランプや、ドラえもん的ドンじゃらなどで遊んだり、かなり密度の濃い保育となった。

 

 おもしろかったのが、釣り堀である。弟の方が「つりがしたい」というので、どうしようか考えたが、わざわざ舟で出るとか、川まで行くというのが難儀で、もうちょっと大きくなればいいが、まだ六歳ではじめてでは……と。ネットで見ると近所に小さな釣り堀があり、孫二人と出かけた。小さな竿と、ままごとのような針に練り餌をつけて楽しんだ。生きた魚を釣り上げる経験は、はじめてで、20匹以上つれて、二人とも大喜びで夢中になっていた。

 ほぼ毎日、午後は出かけ、市バスや地下鉄に一日乗車券でいろいろと探検した。

 

 名古屋港水族館へも出かけたが、一番のはずれだった。水族館自体はおもしろいのだが、人が多すぎて、ゆっくり観られないし、人混みで疲れた。なんだか、とりあえず行ったからね、という感じになった。入場料大人2000円、小学生1000円、幼児500円は、割高に感じた。もっと人のいない時にくればよかったなあと思う。毎年 「電気の科学館」へ行くのだが、ここは反原発的にはどうかと思うが、おもしろい。大須のガチャガチャ専門店は、目が回る。弟の方が「あのバスにのってみたい」というので、どこへ行くかも確認せずに乗ってみる。夏休みは自由だなあと思う。適当に乗ったり降りたりしながら歩く。熱くなったら、適当に近くのお店に入ると、涼しい。なんでも適当な夏休みはいい。

 

 孫たちは、なぜか朝6時25分くらいからのテレビ体操をやる。しかし夜の九時にはみんな寝てしまうので、それから、私自身のやるべき作業や準備、原稿書きなどをやる。

 

 この間も原稿の締め切りは非道にも設定されているし、孫たちが帰るや否や、毎年恒例の子ども平和フォーラムで、「妖怪」の授業と、「大気と空気」の授業をする。講演と講座に厳しい雨の中、東京にも行く。宮台さんの講座の司会をしてから、参加してくれた皆さんと、外に出た。宮台さんと尹さんと私の三人で、近くの公園の地面にチョークで「うんこの絵」を描いて、みなさんと記念写真。

 

 夏休みの残りもさらに充実するのだろうか。

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    8月6日(日曜日)自悶自闘自忘自希  反核の日に

    • 2017.08.06 Sunday
    • 10:21

     

    友人の石川晋さんから依頼され、書かせてもらった原稿です。沢山の著名な教育関係者の中で、場違いの感もありますが、こういう人間もいるんだということで読んでもらおうと思いました。転載します。購読も簡単なんで、読みたい方はどうぞ。

     

    メールマガジン「教師教育を考える会」12号
    2017年8月6日発行
    http://www.mag2.com/m/0000158144.html

     

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     自悶自闘自忘自希
      名古屋市立小学校非常勤講師/学校マガジン『おそい・はやい・ひく
        い・たかい』(ジャパンマシニスト)編集人 岡崎 勝                               
    http://www.mag2.com/m/0000158144.html
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    第12号は、岡崎勝さん。学校マガジン『おそい・はやい・ひくい・た
    かい』(ジャパンマシニスト)の編集人として、ラジカルな(しかしまっ
    とうな)提案を長年にわたって続けてきた方です。すこぶる刺激的な原稿
    を寄せてくださいました。 (石川 晋)
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    小学校の教員生活を40年近くやってきて、現在65歳。いまさらならが、教員になったころとあまり問題意識も変わっていないし、何をみなさんにお話ししようか……と。今までの方に比べ格調は確実に低いと思う。要注意!

     

    1)フリースクール立ち上げに参加して気づくこと
     

    二年半前から近所にできたフリースクールに理事として参加している。今から20年前に愛知万博(2005年開催)に向けて高速道路を造ろうとい環境破壊計画が身近であった。行政の内部にそのことを教えてくれる人がいて、反対運動をすぐにはじめた。仲間と抗議活動、住民監査請求や裁判などいろいろしたが、現在、料金所予定地の土地トラストをしている。今のところ工事は止まっている。


    それまで、いろいろと愛知県内で市民的あるいは教員的(勤務条件労働問題、管理主義教育反対など)活動をしていた。しかし、その高速道路反対“運動”がきっかけで、住んでいる自治会や地域で元気な友だちがたくさんできた。その友人の一人が立ち上げたのが、フリースクールだ。「アーレの樹」といい、アーレとは宝物(なぜかフィンランド語)という意味だそうだ。


    午前中は名古屋市の小学校で、五六年生に理科を教えているので、週に一度くらいだが、子どもたちに「学習」をしてもらおうと、自作プリントや小道具を作って行く。物作りや実験などもするが、1年生から中2まであわせて5〜7人なので、学年にこだわらずにネタを探して持ち込んでいる。


    ところが、フリースクールに行くことで、逆に、つくづく学校というところはいろんな意味ですごいなあと再確認することになった。とりあえず、学校という所は、子どもたちは時間が来れば集まり、年齢別に分割され、教科書を持ち、机にちゃんと座って待つということが「当たり前のこと」になっているというすごさだ。今までもそう思っていたが、フリースクールと比較して、つくづくすごいと実感した。


    フリースクールへ行っても、こどもたちは別に私を歓迎してくれるわけではない。「この大人はセンセイなのだ」という、否定的なまなざしだけは感じるが、スタッフ以上ではない。何回か行けば、この大人は「何かおもしろいことをやってくれるらしい」ということは分かってくるので、「あ、岡崎センセイが来たぞ」という感じにはなる。


    しかし、全員が学校のように授業に向き合うわけではない。半身になって一緒に学んだり、作業したり、考えたりするが、ふっと、「どうしてもやらなければいけませんか?」「いっしょにやらなければいけないの?」というので、別にいいんだよというと、さっと別のところへ移動する子もいるし、つかず離れずの子もいる。「もうちょっとやってみる」と言う子もいる。いろいろなのだ。帰るときには「また来てね」ととりあえずは言ってくれる。


    そして、じっとゆっくり付き合ってくると、彼らなりに何かしたいとか、もっとエネルギーを発散したいとか、もっとおもしろいことに出会いたいという気持ちがあるということだけは分かってくる。しかしそれは、個別のようで集団的、集団のようで個別的な、なんともいえない、学校とは違う「予定調和」「計画」にはちょっとなじまない学びの中身と学び方(関わり方)があるのだなあと、ま、当たり前のことに気づく。しばらく、フリースクール子どもとじっくりとつきあってみるかと思う。

     

    2)学校って本当にいいものですか?


    これは、自分が1976年に管理職には絶対にならないと決意し教員になったときから、ずっと考えてきたし、今も、課題になっている。新任のころから、村田栄一さんの戦後教育論や、持田栄一さんの教育政策論、岡村達雄さんの公教育論、山本哲士さんの産業社会論に触れながら、毎日子どもたちと生活していると、どうしても学校にこだわりながら、そこが窮屈に思えていた。


    新任の頃からいくつかの民間教育団体に参加しながら授業の改革なり、子どもたちによりよい授業を提起しようとそれなりに努力した。有名で優れた実践家や研究者に直接会いながらも、「学校はそんなにいいものなのでしょうか?」と自分なりのやり方で問いながら来たが、未だに答えは出ていない。斎藤喜博さんや竹内敏晴さんには、かなり叱られた。


    新美南吉の作品は嫌いだけれど、「手袋を買いに」で最後に、母狐が「ほんとうに人間はいいものかしら」とつぶやく場面だけが好きで、「学校もほんとうにいいものかしら」と思う。(自分が小学校三年生の頃、「この母狐は、危険な町に子どもを行かせて、ひどい母狐だと思う。自分で買いに行くべきだ」と元気に意見を言って、担任にこっぴどく叱られた記憶がある。それに新美南吉は地元愛知の作家で、読むけど、キライである。教えるのは苦行以外でない。

     

    「ごんぎつね」は最悪だと思っている(笑)。おとなしいと思っていた女子に「授業で、先生がごんぎつねがきらいだということがよくわかった」と言われて反省したことがある。)教育実践とか授業実践は、どこまでいっても終点はないということは分かっている。「子どもの目が輝いて」なんて話はどーでもいいのだが、とりあえず、子どもに迷惑をかけない実践をほそぼそと世界の片隅でやれればいいやと思ってきた。


    若い頃、はしなくも講演したとき、「岡崎先生にとっての善い実践とはなんですか?」とのフロアーからの質問に「子どもが喜んで、教員がラクで、管理職が嫌がる実践です」と応えて、みんなに引かれたことがあるが、今でもそれはあまり変わっていない。最近は管理職が軟弱になってきたので、許されてしまうことがおおくなって、あまり嫌がらないので困る。あるいはこちらが軟弱になってきてしまったのか。

     

    3)夏休みの短縮と部活で忙しいことについて


    夏休みが短くなることに教員が声を大にして反対しないことに私は怒っている。教員は、自分の子ども時代の夏休みがよほど嫌だったのだろうか。「はやく学校で生き生きしたいな」と思って、夏休みを過ごしていたのだろうか?もしそうだとしたら、そいつらは地獄に堕ちろ(笑)と言いたい。


    学校が休みということで、どれほどうれしくわくわくしたことか。今だって、「明日の暴風警報六時まで頑張れ!」と黒板に書いて帰って行く子がいるぞ。そんな思いしかない私は、夏休み短縮(しかも授業時数がどーたらこたら)に声を上げない教員は、子どもの幸せとか笑顔で語って欲しくない。


    夏休みが長くなれば、親が面倒くさくなるのは決まっている。それは親が工夫して、なんとかしろよ!と思う。いやいや、それは親のフツーの仕事でしょ。夏休みなんてホントにめんどくさいよ。お昼ご飯も用意しなくちゃいけないし、家でゴロゴロしていたりするし、宿題も手伝うの大変だし、そのくせ家の手伝いはなかなかしないし……でも、親子バトルがあってこそ、それが親子の正しい姿じゃないのか?!


    なんで夏休みの親子の問題や家庭の問題を学校が引き受けるのだ。夏休みの宿題なんて二学期に見なくちゃ行けないし、子どもも大変だから出さなくていいんだよ。夏休みがあったから、子どもは、「ああ、明日から二学期だけど、しょうがないからがんばるか」と言って九月に学校に来てくれるんだろうと思う。もちろん諸事情でどうしても夏休み面倒見られない親子は「要相談」でいい。例外はどこにでもある。


    親が子どもの面倒を見られないから学校に預けておけば安心というのは、夏休み以外の話である。私は「学校託児所論」を主張してきたが、のべつまくなし出校のような「学校刑務所論」は主張しない。休みの日と夜は子どもを家へ返せ!ということだ。「休日の喜び」は働く者(子どもも含む)の命だ。


    さてブラック部活について。ブラックかピンクは別として、基本的な原則は、「部活は趣味でしかない」である。「暇な子どもが、暇な教員と、公的施設を慎ましく使わせてもらってする趣味活動」というのが、私の部活の定義だ。強くなりたい、いい成績を残したいと思うのは子どもも先生も自由だから、そういうクラブを学校の外に自分たちで作ればいいのだ。外部指導員なんか、指導は外部指導員、責任は教員の最悪ケースだ。外部部活なら許す。


    内田良さんは正しい。内田さんは研究者として優れているので、はっきりしていてよいのだ。金髪もうれしい。話せば普通の良識ある人です、私が保障します。


    だが、私は、部活は趣味同好会以上でもそれ以下でもないと思う。趣味の山登りやクイズ同好会と同じだ。趣味は自由だ。そこに教育的意義を見いだしてもいいけど、押しつけるな、普遍化するな、控えめにしろ……である。


    部活に参加する子どもたちの中にイヤぁーな同調圧力が見えたら、部活は即中止。また、教員の指導顧問を全員に押しつけるような同調圧力があったら即中止が断然正しい。


    教員が職員会で「私は部活指導をしません。書記、記録お願いします」で大抵は部活指導顧問はやらなくてすむ。「どうしてもやらせたいなら職務命令を文書できちんと出してください」でいい。


    万が一職務命令出されたら「勤務時間終了時刻までやりますが、あとは管理職でお願いします」でいい。部活で時間外勤務命令は違法だから出せない。私はそうやってきた。「正しいと思うなら、みんなのいるところではっきりいいなさい」と子どもに指導している教員なら大丈夫、言えます。

     

    4)『お・は』読んでください、あるいは、側においてください。


    私は20年くらい『おそい・はやい・ひくい・たかい』(ジャパンマシニスト社刊)の編集人をしてきました。来年100号になります。隔月とか季刊でやってきました。今は季刊です。最新号98号は8月下旬です。
    http://www.japama.jp/cgi-bin/oha/ohaBN.cgi


    あと、本や雑誌に色々書いてきました。残念ながら現在、ホームページは消失してしまいました。ブログは二つですが、不定期なのでごめんなさい。暇な人や興味のある人はのぞいてください。(告知専用のFBもあります。)
    http://masaruokazaki.jugem.jp/

    http://okazaki-oha.jugem.jp/

    です。


    8月25日発刊「9月臨時増刊号 総特集=かこさとし」(『現代思想』)に「『どろぼうがっこう』という学校異化」を書きました。


    「なぜ学校は必要なんですか?」と子どもに聞かれて、わたしは「難しくてわからない。ゴメンナサイ。そういう質問は頭のいい人に聞きなさい」ととりあえず謝罪的に応えることにしています。なぜかというと、それは質問ではなく、私にとっては子どもからの糾弾だからです。ただ、いくつになっても勉強ですね。

     

    みなさんから、学びたいと思います。どうぞよろしくお願いします。クソ真夏の中、福島から保養に来ている子どもたちとまったり過ごしながら書きました。


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    部活動についての考え方、夏休み短縮に関する議論、大変共感を持って読みました。8月6日は広島原爆が落とされた日。この日に、学校教育の現在地を丁寧に疑っていくことから、次の新しい教育を考えていくために、岡崎さんの語りに静かに耳を傾けたい、そう思います。部活動に関していえば…岡崎さんは、体育教師です。体育の教師が丁寧に語る部活動趣味論、みなさんどう読み、どう考えますか? 当たり前にある現実・現状を、丁寧に考え直しすることなしに、ここからの教員の像を結ぶことはできないと私は考えます。

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    メールマガジン「教師教育を考える会」
    12号(読者数2391)2017年8月6日発行
    編集長:石川晋(zvn06113@nifty.com)
    登録・解除 http://www.mag2.com/m/0000158144.html
    (まぐまぐ:教師教育を考える会)

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      7月13日(木曜日) 夏休みは子どもにとっての黄金時代なのに……

      • 2017.07.13 Thursday
      • 17:19

       

       静岡の吉田町が夏休みを完全閉校の10日間だけにして、毎日の授業を5時間以内に抑えることにしようと、勝手に決めたということを聞いた。「勝手に」というのは、決める前に提案の趣旨を明確にし、学校現場や家庭・保護者、地域の意見を聞き、関係する人びと、とりわけ子どもや教職員の意見を聞き、時間をある程度かけて決めるという「面倒な作業」をしなかったということだ。

       

       最近は、「面倒くさい」というのが、一番嫌われるようなことになってしまった。吉田町で決めた人たちは「面倒くさい」と思ったのだろう。ちょっと前までは、「面倒くさい」のは、「どうでもいいことに時間をかける」ということだった。しかし、今では、じっくりと思考すること、時間をかけて話し合うことの言い換えになってしまった。曰く「話し合ったって無駄」という人びとの気持ちが強くなったのだろう。みんなヤンキー(斎藤環さんの言葉)になってしまったようだ。

       

       エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で権威主義的人間について論じているが、支配される願望という中で、「無意識に指導者に服従する」ファシズム兆候を述べている。なんだか、決めた人たちと、決められた人たちのことを暗示しているのかなと思う。

       

       夏休みが短くなれば、子どもと学校教職員以外は、みんな『ラク』になる。とりわけ、親の中には長い夏休みの間、子どもの世話をしなくてすむのでラクだと強く思う人もいるだろう。ひょっとしたら、子どもの中にも家でごろごろするよりラクだと思うかもしれない。先生たちの中にも「どうせ夏休みだって、仕事させられるんだから、子どもが来ても、いいさ」と思うひともいるだろう。外からは、「先生は夏休みも給料が出ているんだから、仕事して当然でしょう」みたいな話が、どんどん来るんだろうなと思う。

       

       でも、やはり、「夏休みは、家庭でのんびり、過ごしたい」という子どもはたくさんいると思う。「自分も、子どものころ、夏休みは楽しかったから、子どもにも楽しませてやりたい」と思っている親も、きっといると思う。

       

       私は、子どもはやっぱり「夏休みはたっぷり100日くらい学校を休みたい」と思っていると確信している。ま、かなり不安だけど。子どもたちは、なんだかんだといって、学校で頑張っているから、できれば、宿題もなくして、しっかりと休みに遊べるといいんだけどなあと思う。子どもが学校のことを忘れて、のんびりできたらいいのにと思う。

       

       ところが、「夏休みも、塾の合宿があったり、宿題がでたりしているし、進学補強の集中講座もあるから、そんなにのんびりできません」とか「家にだれもいなくなるので、子ども一人を置いておくのは不安なんです」とか、「親としては、学童保育や他の施設で面倒見てもらうとお金がかかるから、学校で夏休みを見てもらえば経済的です」とか、まあ、『夏休み10日論』というか「夏休み廃止論」は支持される要因も、その是非は別にして、あるのだ。

       

       教員としての夏休みは、つまんない研修とか書類の片付けとか、備品整理、教材研究など、いろいろあるけれど、基本的には日々の膨大な無給超過勤務の相殺のためには、「余分に働いた時間を夏休みにまとめてお返し願いたい」という正しい論理である。

       

       それに、自己研修もしたい。教員も教養を広めるために、いろいろ研修したいのだ。二学期に向けてやりたい授業を時間をかけて(仕事として)考えたい。

       

       「夏休みは研修と称して教員は遊んでいる!けしからん」と言う人もいるが、「その指摘はあたりません、まったく問題ありません」なのだ。年間の超過勤務、しかも無給を、夏休みなどの休暇に近い勤務でチャラにしてあげているんだから、文句言う方がおかしいと思ってきた。私など、できるだけ定時退勤を心がけてきたが、家に仕事をかなり持ち帰った。だから、堂々と夏休みは「先生も夏休みでいいんだよ」と親や子どもたちに説明した。

       

       吉田町は「夏休みに授業を増やすかわりに、毎日の授業を5時間にすれば、子どもも日々の授業時間が減り、子どもを早く帰して仕事ができるから、教員も負担も減る」とトンチンカンなことを言っている。そもそも、学習指導要領で内容をてんこもりにして、授業時間を増やしたところに問題があるのだ。子どもと関わる時間が増えれば、それに関わるケア、手間ですけどね、それも増えるに決まっているから、結局、無給超過残業と持ち帰り残業の日数が増量するだけだ。これは確信を持って言える。

       

       なんだか、この「夏休み10日間」賛同の大人は、「子どものため」「学力向上のため」「家庭の負担を減らす」という、もっともらしい言葉を並べているが、結局は「手間のかかる子どもに対する憎しみ」が根底にあるような気がする。「わーい、夏休みだ、うれしいなあ」という無邪気な子どもの声がきっと嫌いなのだろうなあ。なんだかさみしいし、「灰色の男」たちがどんどん増殖しているような気がする。

       

       私は、子どもは、暇をもてあましながら、しっかりと遊んでいないとダメなような気がする。退屈だ!暇だ!なあというくらいで、ちょうどいい。子どもは遊んでなんぼでしょう。それを放っておいたり、見守れる余裕や力が、大人社会にないとダメなのになあと。寛容さやゆとりがなくなったのは、大人社会なのだと思う。定時退勤もできない、有給休暇も取れないとぼやく大人が、「子どもだけ長期休みはけしからん」と言っているような、ルサンチマン全開のような気がする。

       

       もう一度「夏休みの意味」を考えたらどうだろうか? どうして子どもが学校を休んで遊んだらいけないのか? 名古屋は40日くらいしっかりと夏休みだけど、ほんとうに、子どもたちは嬉しそうだし、楽しみにしているよ。夏「休み」なのに、宿題を出すという発想の方がまちがっているような気もしていた。

       

      *ぼくが教員になったころは、先輩たちが「夏休みがあるから先生になったんだ」ということが普通に言われていた。ぼくも、五分の一くらいはそうだけど、それって、すてきなことだと思うんだけどな。人間って、忙しく、中身がいつも濃くなくちゃいけないのだろうか?……と、人生の8回表になっても悩む。

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        6月22日(木曜日) 「子育て困っても、いいじゃない!」的PTA講演会

        • 2017.06.23 Friday
        • 22:12

         

         昨日は、美濃市の小学校へPTAの依頼で講演に出かけた。なにせ山田真さんの母校だということだが、実は、その地域には、映画を見に来たりした、教員の集まりにも来たかな。二回目いや三回目の訪問。

         

         テーマは「子育て、困っていいじゃない!」ということで、体育館的講堂で一時間話した。その後図書室で一時間半。トークだった。

         

         大勢の前で話すのはなんだか手応えがはっきりと分からないので、難しくもある。いわゆる講演プロなら、大勢の人に、感動してもらえるような「上手な話し方」ができるのだろうが、なかなか私には難しい。ただ、最近は、聴いてもらえるだけでもいいかなと思うし、私の話が気に入らなくても、それはそれでしょうがないなと思えるようになってきたので、それほど緊張はしない。

         

         自分が聴き手になったときは、聞きたくない話は途中退席していたし、あまりひどければ意見を言ったりやじったりしていた(笑)ので、ま、私の講演も、いろいろあってもいいやと、そんなもんかと思う。居直っているわけでもないのですが……。今回は、話のあとで、もうちょっと聴きたかったとか、もう少し突っ込んで質問したかったという声もあったので、もうちょっと時間が有ればよかったなと、申し訳なかった。

         

         話したことは、子育ては基本的にそんなにうまくいかないものだし、くじけたりおちこんだりして親になるしかないのではないかと強調したい。子どもとのやりとりが大変になることは、ある意味、子育てやってる証だ。厳しいときに一人で頑張れることもあれば、助けをもとめることもあるし、優等生の親になる必要なんか無いし、そもそも優等生に子どもが育てられるのかぁぁぁ???というのが私の基本。

         

         実際に、世の中や人生で「絶対」とか「予定調和」なんてないと思うのだ。でも原則と理想がなくなると、妥協もどんどん質的低下を招く。それに、自分の子どもだけが幸せになることはあり得ないし、自分の家の中だけが安心安全?なんてあり得ない。それは幻想でしかない。自分の存在が世界とどうつなかっているかの想像力がないと、幸せも豊かさも、単なる勘違いにすぎないのだと……私は確信している。

         

         「損得勘定で生きている家族で育つ子どもは、損得勘定の子どもになるんだよね」と宮台さんがこの前、会ったときに話していたけど、まあ、結局のところ周囲の大人を見て子どもは育つのだということは、どうしようもない現実なんだなと思う。だから、ほんと今の社会に正義や公正や自由や権利ということを大人がしっかり自覚して意識化し、勝ち取らないと、子どもはそれらを身につけずに成長してしまう……そこがけっこうやばいよなと。

         

         だから道徳授業なんてのは、こういう危機に対して、なんの役にもたたないと思う。それよりも、子どもの前に立つ先生や親の「公共性」「正義」「自由」「民主主義」などへの姿勢や向き合い方が、一番子どもに影響するのだ。私は、学校での弱い立場にいる子どもたち(たとえば、障害を持っていたり、勉強が不得意だったり、学校になじめなかったりする子どもたち)が、暮らしやすければ、他の子どもたちにもよい影響や効果を与えると思うのだ。それが自然であればこそだが。

         

         この日の、第二部の図書館では、事前にもらっていた「質問用紙」に答えるのに精一杯だったので、時間切れになってしまった。それでも、午後5時45分くらいまで話をして、午後6時03分の長良川鉄道、JR、名鉄、地下鉄に乗って帰名した。

         

         体育館での話と、図書館での話の間に、休憩時間があり、その間に、会場の近くにある「うだつのあがる街並み」という伝統的な建造物が保存されている街道があり、そこへ散歩に出かけた。「茶房とみや」という甘味処で、珈琲と大福をいただいた。

         

         家に着いたのが午後八時半。中身の濃い一日だった。

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          6月10日(日曜日) 分からないを分かること

          • 2017.06.10 Saturday
          • 19:35

           

           ここ四ヶ月、月一で 「発達障害」といわれる子どもたちが放課後にやってくる場所に勤務し、子どもたちに勉強を教えたり、活動しているスタッフのみなさんにお話をしている。それが一区切り着いた。

           

           この学習会で私は自分の経験や相談事例をエピソード的に語りながら、具体的な学習方法を提示している。本当なら子どもを担任して、一人一人の子どもの特徴を把握し、教える材料を吟味するといいのだが、それにはかなり時間がかかるし、手間も半端ではない。だから、スタッフの気持ちは痛いほど分かるし、その難しさも理解できる。

           

           ただ、誰も手をつけないで残った脂ぎったスープみたいな愚痴であるが、スタッフから聞く、学校の話には愕然とすることがある。最近の学校の先生は(ま、ぼくもそうなんだけど)、教える内容の吟味をしているのだろうか?と思うことがしばしばだ。つまり、業界用語的にいうと「教材・文化研究」である。教える内容をきちんと吟味しているかということだ。

           

           たとえば、一年生にくり下がりやくりあがりを教える時でも、方法や構造はいろいろとあるが、それを分かって教えているかということだ。13−4のときも、たとえば、「3から4ひいても、1たりないから10くりさげて9」と答えを出すのか、「10から4ひいて6を出し、残っている3と合わせて9」とするのかというような考え方や、たしざんの種類も6種類くらいあるのだが、それを把握して文章題や計算を教えているのか?というようなことだ。

           

           文章題ができないのは、「国語力がないからだ」などと断じる先生がいるが、本当か? 教科書に書いてあることだけを理解するということでやっていけるはずがない。 数字には、具体物と抽象化された数字、そしてそれを媒介とするタイル、数え棒、おはじきなどがある。ところが、連続量と分離量という基本的な量の概念を頭に入れて教えることが必要なのに、それをしていないから、みかんの加減は理解できても、時間やリットルなどがすんなりと理解できない子どもがいるのだ。

           

           若い頃、「先生1リットルと2リットルをたすと3リットルになるのは分かるのですが、どうして……」とあと自分のいいたいことが言えないもどかしい顔をしている。彼女が不思議だと思ったのは、リンゴは三つあるのはすぐ分かるのに、水の3リットルは目盛りがなかったら分からないのが変だとという。つまり、リンゴのような分離量は数えやすいし、見ただけですぐに量が分かる。しかし、水は連続しているので、目盛りがなければリットルの境目が見えない。1+2が1に見えてくる(ということらしい)。世の中には、同じ数字で書いても、分離量と連続量があり、その違いを、分かるように教えたら、なるほどとすっきりした顔をした。

           

           先日、「一日おもしろ学校ごっこ」で、私は低学年の算数で、40度のお湯と40度のお湯を足すと何度ですか?と聞いた。子どもたちの多くは80度と答える。そりゃそうだ。算数の勉強が計算ドリル中心で、とにかく演算をたくさんやって、「早く正確に!」の追求なのだから。

           

           そのとき、ゆっくりお湯の計算を説明した。40度と40度を足すと、やっぱり40度ですね(すぐさめちゃうけどね)ということを分かってくれた……と思う。また、ビルの2階で、ボールを3回つくと、全部で何かい? という例文を出しながら、低学年の演算はとりあえず、「同質の加法・減法」ということが原則の話もした。

           

           書かれた問題や課題をイメージすることが重要なので、これは、国語力というより、イメージ力や経験知によって理解しなければならないものが多い。さらに、子どもの分からないコールに応える教師の側の、何が分からないのかが分かる「理解力」も重要になる。

           

           子どもたちのつまずき、違和感、こだわりは、意外と教える中身の根本的なことにつながっていると考えた方が良い。それを教える側が研究しておかないと、たんなる小手先の工夫(これも大事ですけどね)や、子どもの側に問題があると思いがちになる。できるだけ「わかりにくい子ども」にできるだけ「わかりやすくおしえる」ことが教える妙味なのだ。

           

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            6月2日土曜日 埼玉での学童保育研究会講演、影山洋書搬送作業、一日おもしろ学校ごっこ 

            • 2017.06.03 Saturday
            • 21:57

             今週の日曜日5月28日、埼玉の県立大学で、埼玉県学童保育の研究大会に話をしに行きました。極めて現代的な校舎の講堂で600人以上の人を相手に、90分ほど講演したあと、午後は「遊びの科学」という分科会でレクチャー。当日は、だいたい合計5時間くらい話し続けました(笑)。

             

             最初の講演を聴いた人の中には、午後のオカザキの分科会はやめて、他の分科会に出ようと想う人が続出と期待した(笑)のですが、結局若干増えて7〜80人。その会場の階段教室は、上からのぞき込まれるような雰囲気で講座が行われました。なんだか、異常な奇異な場所だと想うのです。あのデザインは、確かにおしゃれで今っぽいけど、なんだか人間的な教室構造ではないなと強く感じました。

             

             しかしながら、参加者はみなさんとても元気で、溌剌としていて、ちょっと学校教員の集会とは違う感じがしたのです。日曜日の朝9時から午後の4時半までみっちりと学ぼうというそのエネルギーが学童保育を支えているんだろうなあと、今さらながら、感動しつつ、強い気持ちを確認しました。

             

             私自身は、当日の朝7時くらいの新幹線に乗って、帰宅したのは夜9時前で、結構疲れる日帰りだったのです。それでも、快い疲れでした。実は、前日の土曜日は自由すぽーつ研究所の仲間と、岡崎市まで行って、師・影山健の蔵書(洋書)を筑波大学へ箱詰めして送る仕事をしたので、連日の充実感に若干お疲れです。埼玉から帰り、翌日の月曜日がやれやれ状態ではありました。

             

             影山の洋書を整理しながら、懐かしかったです。ホイジンガの遊戯論「ホモルーデンス」など、学生時代にコピーして読んだ懐かしい原書や、Play論、オリンピック論、スポーツ批判の本などかなりありました。予想は段ボール5つだったのが、結局 10個になってしまいました。影山はこうした先駆的な論文や洋書を、日常的にかなり読み込んでいて、主たる部分を必ずコピーして「読みなさい」と私達に渡してくれたものです。

             

             整理し終わった跡、「そういえば……」とある本(フランスの雑誌)を想いだし、書斎を見渡すと、「こっちにあるよ」と本に呼ばれたように、直ぐにそこに眼が行ったんです。あったのだ!!!大判のフランスの「身体」関連の1980年前後の雑誌です。膨大な書斎の中から、本当に直ぐに見付かり、これも縁だなと思い、奥様に御願いして、借りることにしました(フランス語は読めないけど(笑))。

             

             先日も愛知教育大の図書館で、洋書を借りたら、なんと影山先生がすでに読んだ跡(先生の読んだときの鉛筆メモは直ぐに分かるのだ)があり、驚きながらも、うれしかった。そういえば、研究室にもかなり公費で買った洋書があったなあと想い出した。

             

             今日は第53回の「一日おもしろ学校ごっこ」。90人以上の参加で、大騒ぎ! 私は、算数で、高学年の「割合」と低学年の「たしざん、ひきざん」を担当。子どもたちの元気な声にはげまされ、スタッフと一緒に頑張りましたよ。割合はけっこう大変で、この50分でなにもかもできるようになるわけではないんですけど、そのきっかけになればと。

             

             いずれにせよ、たくさんの子どもや保護者と共に、充実した一日過ごすことができて、よかったです。

             

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              5月30日(火曜日)「コミュ力」の育て方……ってなんだよ!置いておくだけで役立つ『お・は』97号

              • 2017.05.30 Tuesday
              • 22:03

               

               『お・は』97号が発売された。今回は、「コミュ力」ってどうだ! というような特集です。平田オリザさんとの対談をしました。

               

               どうも、コミュ力というのが「必要だ」と言われつつも、実態がはっきりしない。そのあたりを、様々な視点から特集してみました。コミュ力が「調子のいい奴」の力を意味しているのではないのですが、どうも、即答や即効対処ばかりを期待しているのではないか。そういう力を言っているのか? 疑心暗鬼になります。

               

               実際、コミュ力の高い人って、どんな人? たとえば、会話したり相談したり会議したりして「この人の話を聞いてみようかな」と想う人は、スキルだけじゃないような気がする。じっくりと問いかけに考えて、しっかりと自分の考えや、知っていること、知らないことを、ある程度めんどくさくても伝える人だと想う。だから、不器用な人も、コミュ力があるとかないとか言えるし、基準があるわけではないだろう。

               

               「コミュ障」などという、嫌な、かつ不謹慎な言葉もあるが、それも批判した。コミュ力なんていらんがや!というのが、ボクの論考。

               

               まあ、そのあたりの、分かったような、分かっていないようなことを、いろんな角度から、いろんな人に書いてもらって、切開してみた。

               

               ぼくの連載は、労働論=働き方と格差問題である。なかなか頑張った論考だと想う。自画自賛。

               

               先日、教員の集まりで、話をしたら、「本を読む時間がないんです」というので、それは「読む気がないのだと想う」と言ってしまって、かなりひかれた(笑)。しかし、『お・は』は、万が一読まなくても、とりあえず、そばに置いておくだけで十分に役に立つ本なのだ。全巻そろえておけば、何か難問ぶちあたったとき、背表紙を見て、引き出して使える。

               

               『お・は』は学校・教育百科事典と言って良い。一冊や二冊じゃダメだ。全巻、あるいは、30巻以上ないだめだ。こんきよく集めて欲しい。学校と教育のデ○ゴス○ィーニと読んで欲しい

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                五月二十日(土曜日)学校とコンピューターの「必要」という言い方

                • 2017.05.21 Sunday
                • 11:43

                 

                 今度の学習指導要領ではコンピューターを使ってのプログラミング学習が盛り込まれている。小学校でも、色々な教科にこのプログラミング学習を取り入れていこうということになっているが、かなり問題があると思っている。

                 

                 プログラミングそれ自体がダメだということではないし、まあ、言ってみれば世界はプログラミングされているのだと言えなくもない(笑)。しかし、もうちょっと根本的なことを考えてみるべきではないかというのが、私の意識だ。

                 

                 プログラミングスキルがこれからの社会は必要だし、仕事にもどんどん入ってくるから小さい頃から慣れておくべきだ……というものの言い方は、教育や学校に新しいコンテンツを入れるときに、よく使う常套句である。確かにアルゴリズムが複雑に生活へ持ち込まれてしまっているから、無視することはなかなか難しいだろう。だが、だからといって、なんでもかんでも「必要だ」というのはちょっと待てよ!と思う。

                 

                 現代のような高度産業社会では、「欲望」と「必要」は作られているということを自覚する必要(笑)がある。つまり、生活の中で「欲望」と「必要」が、強制的に生み出されているのだと。おおざっぱな言い方だけど、こうなる。

                 

                 まず社会の中で「便利」が生み出される。次に「便利を拒否できない」という形で「便利さが強制される」のだ。もし拒否したらそれは「欠如」としてその人に認識される。「欠如」は放置できないということになり、埋め合わせなければならず、自発的に強制されて、その便利と便利さを補完するものを「必要」とするようになる……というわけだ。

                 

                そして私にとってのファイスブックFBについてだが、(あくまで個人的なものでしかないけど)

                 

                 私は今日からFBを一時停止したのだが、しばらく「FBのチェックをしない」という習慣と闘う(笑)ことになる。少し前までは、FB無しでも何も困らないときがあったわけだが、2013年から使い始め、「友だち」が300人を超えたあたりからFBに対応する時間が増えた。

                 

                 正直、今現在の自分にとって、FBに書かれていることは、絶対的に必要な内容ではない(もちろん「友だち」が、あげて書いているくる内容に文句をつけるつもりは全くない。「友だち」が書いたことが、いつも自分に興味があるはずだという方がおかしいのだから。)のだが、おもしろかったり、自分も「そういえば」的な感じでコメントを入れたりすることが増えてきた。

                 

                 「いいね」等のクリックはしなくてもいいはずなのだが、することが多くなる。しだいに、「いいね」とか「うけるね」など、どの選択肢をクリックするかということ以前に、クリックする方がいいのか、しなくてもいいのかという、クリックするかしないかということを判断せず、評価選択をすることが当然のようになってしまった。

                 

                 また、自分の投稿の「いいね」の数を気にするようになってしまった。本来、「いいね」の数はわたしにとってどうでもよかったのだ。「いいね」が多いとうれしいとか、少ないと残念……などというレベルにはまだ達していない(笑)が、数を視覚にいれることが多くなったということだ。

                 

                 もう一つ、これはかなり前から感じていたのだが、FBでやりとりしていると「毎日会っているみたいだね」と思うようになってしまったことだ。同窓会で一年ぶり、数年ぶりに会っても、「久しぶり」という感じがしないのだ。これは、いいことなのだろうか?……と思うようになった。

                 

                 こうしたいろいろな問題。それから、私の場合はメッセンジャーをFBと一緒に使っていたので、最初は便利だなと思っていたが、だんだんメッセンジャーでのメールが増えてくると、返事に時間がかなり取られる。しかも、即レスは無理と言いつつも、できるだけ早く返信しなければという「意識」が出てきてしまって、PCにしばられるから、自分にはあっていないなと思うようになった。この便利さが忙しさを増加させていることに、今更ながら気づき、確認できた。ということで、しばらく停止。

                 

                 まだFBのアカウントは残したままだが、しばらく、あるいは、ずっとFBは停止である。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

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                  4月24日(月曜日) 女親論議:宮台真司さんと尹雄大さん、そして私

                  • 2017.04.24 Monday
                  • 22:26

                   

                  先日の『お・は』『ち・お』で開催した宮台さんと尹さんの講演会、実は、正式には「『お・は』公開取材講演」のようなもので、尹雄大さんが宮台さんと話をしながら、聞き出すという形をとっている。それが五回目。

                   

                  「女親と娘」の話、「女親と息子」の話。それぞれからはじまった。宮台さんは冒頭「今までのような家族、つまり一般的にイメージされるような家族はもう望めない」と言う。これは、いわゆる父母子ども2人で、アパートあるいは一戸建てに住んでいるような近代家族のようなことだと思うのだけれど、私たちが家族を語るときに、無意識に前提としていたり、「望ましい」と仮定しているような家族だと思って良いだろう。

                   

                  このことは、かなり重要なことで、いまどき家族と言ってもいろいろな形があるし、構成員だって、いろいろだ。これを昔に戻そうとするのが今の家族支援法みたいな安倍晋三が一生懸命「再生」させようとしている家族だ。まあ、「昭和の記録」くらいにしか出てこなくなった家族だ。むろん、そういう家族がいいとか悪いと言っているのではなく、現実的にはそんな非常に少数で、絶滅危惧種的だという認識が必要だと思うのだ。

                   

                  さて、女親と娘、女親と息子の宮台的な展開は、ぼくが予想したようにはいかなかった。まあ、自分自身が通俗的だったということにすぎないのだが……(笑)。尹さんとの事前打ち合わせでは、「母が重い」娘の話や、息子に自立を促しながらも、片方でいつまでも「外」へ出さない女親の「ダブルバインド支配」の話をしようとしていたが、すぐに、宮台さんは、そのあたりはあまり触れずに、それはお互いが自律していないだけの話だろうねということになった。おそらく宮台さんは心理学的にラカンやフロイトを念頭に入れて、すでに整理しており、あまり興味がわかなさそうだった。

                   

                  それよりも、最近の子育てに関わる、宮台さんの連れ合いさんとのトラブルについての話になり、結果的には、今日の話は、そっちから切り込んでいくことになった。その内容についてはプライバシーに配慮(笑)して詳しくは書かないが、いろいろな子育てトラブルの根っこには、圧倒的に子どもに近い女親と子どもの間にどうやって「社会」を入れ込むかということに尽き、価値観を一様にせず、揺らぎの中に子どもをおくことが重要だと述べる。そして、その「社会」を入れ込むのは、父親とは限らず、斜めの人間関係も重要だと指摘する。つまり、近所のおっさん・おばさん等々である。

                   

                  今時、こういうおっさんやおばさんは「安心安全の敵」のように思われがちだし、なかなかいないけれど(こちらも希少価値が高い)結局は、子どもにとって一番重要な社会性=未熟さからの脱皮力を育ている要なのだと私も思う。「規則は破るためにある」と子どもに教えるという宮台さんの論理は、同時に、どの程度までそれが許容されるかとか、行きすぎないかとか(これは、あらかじめ決められた線などない)を身をもって理解して判断力を身に付けるという課題が付随しており、かつ避けて通れないことだと論じる。

                   

                  なかなかうまくまとめられなかったが、なんだか、いつもおもしろい宮台さんと尹さんだった。

                   

                  はじめに私自身が予想した「女親の厳しさ」を差別とかフェミニズムとは若干違った角度から考える話だった。

                   

                   

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                    4月12日(水曜日) 自然の環境に人間は「勝利」できるか?

                    • 2017.04.12 Wednesday
                    • 13:29

                     

                    今年も、今週末から、小学校で理科を教える。毎年、最初の授業では、自己紹介の後、おもしろい実験やお話をしながら、「科学」とか「理科」は一体何を勉強するんだろうね?と問いながら、しばらく楽しむ。

                     

                    5年生は「天気と雲」、6年生は「燃焼」の学習から始まる。ところが、昨年は、九州で地震が起き、前震や本震が報道され、阪神淡路や東日本とは異なる揺れ方や被害の状況に頭が混乱した。

                     

                    すぐに地震のことを教えるべきだと思い、データやリアルタイムの熊本の状況を知らせながら(熊本日々新聞を一ヶ月購読した)、「地球と自然」というテーマでも授業をした。

                     

                    こうした自然の災害があるたびに自分自身が学習し、それなりにどんどん知識や研究成果を知ることになる。そして、意外と自然というのは分かっていることが少なく、予測や将来のことになると、とんでもなく分からないことばかりである。

                     

                    子どもが「先生、私たちの地域には南海トラフがやってくるって言われていて、おばあちゃんの所には津波も来ますが、防ぐことはできないんですか?」と聞く。こうした素朴すぎる質問が、一番きつい。

                     

                    人間の歴史は、自然との闘いの歴史だと言われるが、なかなか自然に勝利することはできない。なぜなら、自然を破壊することは、人間も破壊されることになるからだ。自然環境の破壊は、人間の自滅行為でもあると歴史は教えてくれる。じゃあ、震災や洪水に「負け続けてもいいのか?」と言われれば、そうはいかないぜ、と断固思う。

                     

                    「自然との調和」というと、聞こえはいいし、のどかな自然ならそれもいい。しかし、自然災害にはどう対応したらいいのかという反問に正解はないだろう。子どもたちと、考えれば考えるほど行き詰まってしまう。

                     

                    いままででも、被災したみなさんにかける言葉が見つからないのだが、自分の経験から言って、子どもたちが元気なうちは、大人だってなんとかなると思っている。もちろん、子どもといっても、自分の家の子どもだけでなく、地域や学校の子どもたちも含めてである。生活の立て直しを、すぐに見通せないとしても、未来に生きる子どもたちのためになら少しは踏ん張れると思うのだ。

                     

                    原発や地震の避難が続いている今、不安で気持ちの落ち着かない子どもたちや、障害のある子どもたちの心細さはいかばかりだろうか。察するにあまりあるけれど、今こそ学校で友だちと笑顔を!と思う。

                     

                    原発を、まだ再稼働しようという、気持も理屈も分からない……というか、輸出までしようという発想は、どう考えても、「どうなっても知らんよ。責任なんか取るつもり無いから」ということなんだとしか思えない。ミサイルとかサリンとか難民排除という他の国を非難できるような日本ではないと思ってしまう。

                     

                    K201605

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