7月13日(木曜日) 夏休みは子どもにとっての黄金時代なのに……

  • 2017.07.13 Thursday
  • 17:19

 

 静岡の吉田町が夏休みを完全閉校の10日間だけにして、毎日の授業を5時間以内に抑えることにしようと、勝手に決めたということを聞いた。「勝手に」というのは、決める前に提案の趣旨を明確にし、学校現場や家庭・保護者、地域の意見を聞き、関係する人びと、とりわけ子どもや教職員の意見を聞き、時間をある程度かけて決めるという「面倒な作業」をしなかったということだ。

 

 最近は、「面倒くさい」というのが、一番嫌われるようなことになってしまった。吉田町で決めた人たちは「面倒くさい」と思ったのだろう。ちょっと前までは、「面倒くさい」のは、「どうでもいいことに時間をかける」ということだった。しかし、今では、じっくりと思考すること、時間をかけて話し合うことの言い換えになってしまった。曰く「話し合ったって無駄」という人びとの気持ちが強くなったのだろう。みんなヤンキー(斎藤環さんの言葉)になってしまったようだ。

 

 エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で権威主義的人間について論じているが、支配される願望という中で、「無意識に指導者に服従する」ファシズム兆候を述べている。なんだか、決めた人たちと、決められた人たちのことを暗示しているのかなと思う。

 

 夏休みが短くなれば、子どもと学校教職員以外は、みんな『ラク』になる。とりわけ、親の中には長い夏休みの間、子どもの世話をしなくてすむのでラクだと強く思う人もいるだろう。ひょっとしたら、子どもの中にも家でごろごろするよりラクだと思うかもしれない。先生たちの中にも「どうせ夏休みだって、仕事させられるんだから、子どもが来ても、いいさ」と思うひともいるだろう。外からは、「先生は夏休みも給料が出ているんだから、仕事して当然でしょう」みたいな話が、どんどん来るんだろうなと思う。

 

 でも、やはり、「夏休みは、家庭でのんびり、過ごしたい」という子どもはたくさんいると思う。「自分も、子どものころ、夏休みは楽しかったから、子どもにも楽しませてやりたい」と思っている親も、きっといると思う。

 

 私は、子どもはやっぱり「夏休みはたっぷり100日くらい学校を休みたい」と思っていると確信している。ま、かなり不安だけど。子どもたちは、なんだかんだといって、学校で頑張っているから、できれば、宿題もなくして、しっかりと休みに遊べるといいんだけどなあと思う。子どもが学校のことを忘れて、のんびりできたらいいのにと思う。

 

 ところが、「夏休みも、塾の合宿があったり、宿題がでたりしているし、進学補強の集中講座もあるから、そんなにのんびりできません」とか「家にだれもいなくなるので、子ども一人を置いておくのは不安なんです」とか、「親としては、学童保育や他の施設で面倒見てもらうとお金がかかるから、学校で夏休みを見てもらえば経済的です」とか、まあ、『夏休み10日論』というか「夏休み廃止論」は支持される要因も、その是非は別にして、あるのだ。

 

 教員としての夏休みは、つまんない研修とか書類の片付けとか、備品整理、教材研究など、いろいろあるけれど、基本的には日々の膨大な無給超過勤務の相殺のためには、「余分に働いた時間を夏休みにまとめてお返し願いたい」という正しい論理である。

 

 それに、自己研修もしたい。教員も教養を広めるために、いろいろ研修したいのだ。二学期に向けてやりたい授業を時間をかけて(仕事として)考えたい。

 

 「夏休みは研修と称して教員は遊んでいる!けしからん」と言う人もいるが、「その指摘はあたりません、まったく問題ありません」なのだ。年間の超過勤務、しかも無給を、夏休みなどの休暇に近い勤務でチャラにしてあげているんだから、文句言う方がおかしいと思ってきた。私など、できるだけ定時退勤を心がけてきたが、家に仕事をかなり持ち帰った。だから、堂々と夏休みは「先生も夏休みでいいんだよ」と親や子どもたちに説明した。

 

 吉田町は「夏休みに授業を増やすかわりに、毎日の授業を5時間にすれば、子どもも日々の授業時間が減り、子どもを早く帰して仕事ができるから、教員も負担も減る」とトンチンカンなことを言っている。そもそも、学習指導要領で内容をてんこもりにして、授業時間を増やしたところに問題があるのだ。子どもと関わる時間が増えれば、それに関わるケア、手間ですけどね、それも増えるに決まっているから、結局、無給超過残業と持ち帰り残業の日数が増量するだけだ。これは確信を持って言える。

 

 なんだか、この「夏休み10日間」賛同の大人は、「子どものため」「学力向上のため」「家庭の負担を減らす」という、もっともらしい言葉を並べているが、結局は「手間のかかる子どもに対する憎しみ」が根底にあるような気がする。「わーい、夏休みだ、うれしいなあ」という無邪気な子どもの声がきっと嫌いなのだろうなあ。なんだかさみしいし、「灰色の男」たちがどんどん増殖しているような気がする。

 

 私は、子どもは、暇をもてあましながら、しっかりと遊んでいないとダメなような気がする。退屈だ!暇だ!なあというくらいで、ちょうどいい。子どもは遊んでなんぼでしょう。それを放っておいたり、見守れる余裕や力が、大人社会にないとダメなのになあと。寛容さやゆとりがなくなったのは、大人社会なのだと思う。定時退勤もできない、有給休暇も取れないとぼやく大人が、「子どもだけ長期休みはけしからん」と言っているような、ルサンチマン全開のような気がする。

 

 もう一度「夏休みの意味」を考えたらどうだろうか? どうして子どもが学校を休んで遊んだらいけないのか? 名古屋は40日くらいしっかりと夏休みだけど、ほんとうに、子どもたちは嬉しそうだし、楽しみにしているよ。夏「休み」なのに、宿題を出すという発想の方がまちがっているような気もしていた。

 

*ぼくが教員になったころは、先輩たちが「夏休みがあるから先生になったんだ」ということが普通に言われていた。ぼくも、五分の一くらいはそうだけど、それって、すてきなことだと思うんだけどな。人間って、忙しく、中身がいつも濃くなくちゃいけないのだろうか?……と、人生の8回表になっても悩む。

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    6月22日(木曜日) 「子育て困っても、いいじゃない!」的PTA講演会

    • 2017.06.23 Friday
    • 22:12

     

     昨日は、美濃市の小学校へPTAの依頼で講演に出かけた。なにせ山田真さんの母校だということだが、実は、その地域には、映画を見に来たりした、教員の集まりにも来たかな。二回目いや三回目の訪問。

     

     テーマは「子育て、困っていいじゃない!」ということで、体育館的講堂で一時間話した。その後図書室で一時間半。トークだった。

     

     大勢の前で話すのはなんだか手応えがはっきりと分からないので、難しくもある。いわゆる講演プロなら、大勢の人に、感動してもらえるような「上手な話し方」ができるのだろうが、なかなか私には難しい。ただ、最近は、聴いてもらえるだけでもいいかなと思うし、私の話が気に入らなくても、それはそれでしょうがないなと思えるようになってきたので、それほど緊張はしない。

     

     自分が聴き手になったときは、聞きたくない話は途中退席していたし、あまりひどければ意見を言ったりやじったりしていた(笑)ので、ま、私の講演も、いろいろあってもいいやと、そんなもんかと思う。居直っているわけでもないのですが……。今回は、話のあとで、もうちょっと聴きたかったとか、もう少し突っ込んで質問したかったという声もあったので、もうちょっと時間が有ればよかったなと、申し訳なかった。

     

     話したことは、子育ては基本的にそんなにうまくいかないものだし、くじけたりおちこんだりして親になるしかないのではないかと強調したい。子どもとのやりとりが大変になることは、ある意味、子育てやってる証だ。厳しいときに一人で頑張れることもあれば、助けをもとめることもあるし、優等生の親になる必要なんか無いし、そもそも優等生に子どもが育てられるのかぁぁぁ???というのが私の基本。

     

     実際に、世の中や人生で「絶対」とか「予定調和」なんてないと思うのだ。でも原則と理想がなくなると、妥協もどんどん質的低下を招く。それに、自分の子どもだけが幸せになることはあり得ないし、自分の家の中だけが安心安全?なんてあり得ない。それは幻想でしかない。自分の存在が世界とどうつなかっているかの想像力がないと、幸せも豊かさも、単なる勘違いにすぎないのだと……私は確信している。

     

     「損得勘定で生きている家族で育つ子どもは、損得勘定の子どもになるんだよね」と宮台さんがこの前、会ったときに話していたけど、まあ、結局のところ周囲の大人を見て子どもは育つのだということは、どうしようもない現実なんだなと思う。だから、ほんと今の社会に正義や公正や自由や権利ということを大人がしっかり自覚して意識化し、勝ち取らないと、子どもはそれらを身につけずに成長してしまう……そこがけっこうやばいよなと。

     

     だから道徳授業なんてのは、こういう危機に対して、なんの役にもたたないと思う。それよりも、子どもの前に立つ先生や親の「公共性」「正義」「自由」「民主主義」などへの姿勢や向き合い方が、一番子どもに影響するのだ。私は、学校での弱い立場にいる子どもたち(たとえば、障害を持っていたり、勉強が不得意だったり、学校になじめなかったりする子どもたち)が、暮らしやすければ、他の子どもたちにもよい影響や効果を与えると思うのだ。それが自然であればこそだが。

     

     この日の、第二部の図書館では、事前にもらっていた「質問用紙」に答えるのに精一杯だったので、時間切れになってしまった。それでも、午後5時45分くらいまで話をして、午後6時03分の長良川鉄道、JR、名鉄、地下鉄に乗って帰名した。

     

     体育館での話と、図書館での話の間に、休憩時間があり、その間に、会場の近くにある「うだつのあがる街並み」という伝統的な建造物が保存されている街道があり、そこへ散歩に出かけた。「茶房とみや」という甘味処で、珈琲と大福をいただいた。

     

     家に着いたのが午後八時半。中身の濃い一日だった。

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      6月10日(日曜日) 分からないを分かること

      • 2017.06.10 Saturday
      • 19:35

       

       ここ四ヶ月、月一で 「発達障害」といわれる子どもたちが放課後にやってくる場所に勤務し、子どもたちに勉強を教えたり、活動しているスタッフのみなさんにお話をしている。それが一区切り着いた。

       

       この学習会で私は自分の経験や相談事例をエピソード的に語りながら、具体的な学習方法を提示している。本当なら子どもを担任して、一人一人の子どもの特徴を把握し、教える材料を吟味するといいのだが、それにはかなり時間がかかるし、手間も半端ではない。だから、スタッフの気持ちは痛いほど分かるし、その難しさも理解できる。

       

       ただ、誰も手をつけないで残った脂ぎったスープみたいな愚痴であるが、スタッフから聞く、学校の話には愕然とすることがある。最近の学校の先生は(ま、ぼくもそうなんだけど)、教える内容の吟味をしているのだろうか?と思うことがしばしばだ。つまり、業界用語的にいうと「教材・文化研究」である。教える内容をきちんと吟味しているかということだ。

       

       たとえば、一年生にくり下がりやくりあがりを教える時でも、方法や構造はいろいろとあるが、それを分かって教えているかということだ。13−4のときも、たとえば、「3から4ひいても、1たりないから10くりさげて9」と答えを出すのか、「10から4ひいて6を出し、残っている3と合わせて9」とするのかというような考え方や、たしざんの種類も6種類くらいあるのだが、それを把握して文章題や計算を教えているのか?というようなことだ。

       

       文章題ができないのは、「国語力がないからだ」などと断じる先生がいるが、本当か? 教科書に書いてあることだけを理解するということでやっていけるはずがない。 数字には、具体物と抽象化された数字、そしてそれを媒介とするタイル、数え棒、おはじきなどがある。ところが、連続量と分離量という基本的な量の概念を頭に入れて教えることが必要なのに、それをしていないから、みかんの加減は理解できても、時間やリットルなどがすんなりと理解できない子どもがいるのだ。

       

       若い頃、「先生1リットルと2リットルをたすと3リットルになるのは分かるのですが、どうして……」とあと自分のいいたいことが言えないもどかしい顔をしている。彼女が不思議だと思ったのは、リンゴは三つあるのはすぐ分かるのに、水の3リットルは目盛りがなかったら分からないのが変だとという。つまり、リンゴのような分離量は数えやすいし、見ただけですぐに量が分かる。しかし、水は連続しているので、目盛りがなければリットルの境目が見えない。1+2が1に見えてくる(ということらしい)。世の中には、同じ数字で書いても、分離量と連続量があり、その違いを、分かるように教えたら、なるほどとすっきりした顔をした。

       

       先日、「一日おもしろ学校ごっこ」で、私は低学年の算数で、40度のお湯と40度のお湯を足すと何度ですか?と聞いた。子どもたちの多くは80度と答える。そりゃそうだ。算数の勉強が計算ドリル中心で、とにかく演算をたくさんやって、「早く正確に!」の追求なのだから。

       

       そのとき、ゆっくりお湯の計算を説明した。40度と40度を足すと、やっぱり40度ですね(すぐさめちゃうけどね)ということを分かってくれた……と思う。また、ビルの2階で、ボールを3回つくと、全部で何かい? という例文を出しながら、低学年の演算はとりあえず、「同質の加法・減法」ということが原則の話もした。

       

       書かれた問題や課題をイメージすることが重要なので、これは、国語力というより、イメージ力や経験知によって理解しなければならないものが多い。さらに、子どもの分からないコールに応える教師の側の、何が分からないのかが分かる「理解力」も重要になる。

       

       子どもたちのつまずき、違和感、こだわりは、意外と教える中身の根本的なことにつながっていると考えた方が良い。それを教える側が研究しておかないと、たんなる小手先の工夫(これも大事ですけどね)や、子どもの側に問題があると思いがちになる。できるだけ「わかりにくい子ども」にできるだけ「わかりやすくおしえる」ことが教える妙味なのだ。

       

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        6月2日土曜日 埼玉での学童保育研究会講演、影山洋書搬送作業、一日おもしろ学校ごっこ 

        • 2017.06.03 Saturday
        • 21:57

         今週の日曜日5月28日、埼玉の県立大学で、埼玉県学童保育の研究大会に話をしに行きました。極めて現代的な校舎の講堂で600人以上の人を相手に、90分ほど講演したあと、午後は「遊びの科学」という分科会でレクチャー。当日は、だいたい合計5時間くらい話し続けました(笑)。

         

         最初の講演を聴いた人の中には、午後のオカザキの分科会はやめて、他の分科会に出ようと想う人が続出と期待した(笑)のですが、結局若干増えて7〜80人。その会場の階段教室は、上からのぞき込まれるような雰囲気で講座が行われました。なんだか、異常な奇異な場所だと想うのです。あのデザインは、確かにおしゃれで今っぽいけど、なんだか人間的な教室構造ではないなと強く感じました。

         

         しかしながら、参加者はみなさんとても元気で、溌剌としていて、ちょっと学校教員の集会とは違う感じがしたのです。日曜日の朝9時から午後の4時半までみっちりと学ぼうというそのエネルギーが学童保育を支えているんだろうなあと、今さらながら、感動しつつ、強い気持ちを確認しました。

         

         私自身は、当日の朝7時くらいの新幹線に乗って、帰宅したのは夜9時前で、結構疲れる日帰りだったのです。それでも、快い疲れでした。実は、前日の土曜日は自由すぽーつ研究所の仲間と、岡崎市まで行って、師・影山健の蔵書(洋書)を筑波大学へ箱詰めして送る仕事をしたので、連日の充実感に若干お疲れです。埼玉から帰り、翌日の月曜日がやれやれ状態ではありました。

         

         影山の洋書を整理しながら、懐かしかったです。ホイジンガの遊戯論「ホモルーデンス」など、学生時代にコピーして読んだ懐かしい原書や、Play論、オリンピック論、スポーツ批判の本などかなりありました。予想は段ボール5つだったのが、結局 10個になってしまいました。影山はこうした先駆的な論文や洋書を、日常的にかなり読み込んでいて、主たる部分を必ずコピーして「読みなさい」と私達に渡してくれたものです。

         

         整理し終わった跡、「そういえば……」とある本(フランスの雑誌)を想いだし、書斎を見渡すと、「こっちにあるよ」と本に呼ばれたように、直ぐにそこに眼が行ったんです。あったのだ!!!大判のフランスの「身体」関連の1980年前後の雑誌です。膨大な書斎の中から、本当に直ぐに見付かり、これも縁だなと思い、奥様に御願いして、借りることにしました(フランス語は読めないけど(笑))。

         

         先日も愛知教育大の図書館で、洋書を借りたら、なんと影山先生がすでに読んだ跡(先生の読んだときの鉛筆メモは直ぐに分かるのだ)があり、驚きながらも、うれしかった。そういえば、研究室にもかなり公費で買った洋書があったなあと想い出した。

         

         今日は第53回の「一日おもしろ学校ごっこ」。90人以上の参加で、大騒ぎ! 私は、算数で、高学年の「割合」と低学年の「たしざん、ひきざん」を担当。子どもたちの元気な声にはげまされ、スタッフと一緒に頑張りましたよ。割合はけっこう大変で、この50分でなにもかもできるようになるわけではないんですけど、そのきっかけになればと。

         

         いずれにせよ、たくさんの子どもや保護者と共に、充実した一日過ごすことができて、よかったです。

         

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          5月30日(火曜日)「コミュ力」の育て方……ってなんだよ!置いておくだけで役立つ『お・は』97号

          • 2017.05.30 Tuesday
          • 22:03

           

           『お・は』97号が発売された。今回は、「コミュ力」ってどうだ! というような特集です。平田オリザさんとの対談をしました。

           

           どうも、コミュ力というのが「必要だ」と言われつつも、実態がはっきりしない。そのあたりを、様々な視点から特集してみました。コミュ力が「調子のいい奴」の力を意味しているのではないのですが、どうも、即答や即効対処ばかりを期待しているのではないか。そういう力を言っているのか? 疑心暗鬼になります。

           

           実際、コミュ力の高い人って、どんな人? たとえば、会話したり相談したり会議したりして「この人の話を聞いてみようかな」と想う人は、スキルだけじゃないような気がする。じっくりと問いかけに考えて、しっかりと自分の考えや、知っていること、知らないことを、ある程度めんどくさくても伝える人だと想う。だから、不器用な人も、コミュ力があるとかないとか言えるし、基準があるわけではないだろう。

           

           「コミュ障」などという、嫌な、かつ不謹慎な言葉もあるが、それも批判した。コミュ力なんていらんがや!というのが、ボクの論考。

           

           まあ、そのあたりの、分かったような、分かっていないようなことを、いろんな角度から、いろんな人に書いてもらって、切開してみた。

           

           ぼくの連載は、労働論=働き方と格差問題である。なかなか頑張った論考だと想う。自画自賛。

           

           先日、教員の集まりで、話をしたら、「本を読む時間がないんです」というので、それは「読む気がないのだと想う」と言ってしまって、かなりひかれた(笑)。しかし、『お・は』は、万が一読まなくても、とりあえず、そばに置いておくだけで十分に役に立つ本なのだ。全巻そろえておけば、何か難問ぶちあたったとき、背表紙を見て、引き出して使える。

           

           『お・は』は学校・教育百科事典と言って良い。一冊や二冊じゃダメだ。全巻、あるいは、30巻以上ないだめだ。こんきよく集めて欲しい。学校と教育のデ○ゴス○ィーニと読んで欲しい

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            五月二十日(土曜日)学校とコンピューターの「必要」という言い方

            • 2017.05.21 Sunday
            • 11:43

             

             今度の学習指導要領ではコンピューターを使ってのプログラミング学習が盛り込まれている。小学校でも、色々な教科にこのプログラミング学習を取り入れていこうということになっているが、かなり問題があると思っている。

             

             プログラミングそれ自体がダメだということではないし、まあ、言ってみれば世界はプログラミングされているのだと言えなくもない(笑)。しかし、もうちょっと根本的なことを考えてみるべきではないかというのが、私の意識だ。

             

             プログラミングスキルがこれからの社会は必要だし、仕事にもどんどん入ってくるから小さい頃から慣れておくべきだ……というものの言い方は、教育や学校に新しいコンテンツを入れるときに、よく使う常套句である。確かにアルゴリズムが複雑に生活へ持ち込まれてしまっているから、無視することはなかなか難しいだろう。だが、だからといって、なんでもかんでも「必要だ」というのはちょっと待てよ!と思う。

             

             現代のような高度産業社会では、「欲望」と「必要」は作られているということを自覚する必要(笑)がある。つまり、生活の中で「欲望」と「必要」が、強制的に生み出されているのだと。おおざっぱな言い方だけど、こうなる。

             

             まず社会の中で「便利」が生み出される。次に「便利を拒否できない」という形で「便利さが強制される」のだ。もし拒否したらそれは「欠如」としてその人に認識される。「欠如」は放置できないということになり、埋め合わせなければならず、自発的に強制されて、その便利と便利さを補完するものを「必要」とするようになる……というわけだ。

             

            そして私にとってのファイスブックFBについてだが、(あくまで個人的なものでしかないけど)

             

             私は今日からFBを一時停止したのだが、しばらく「FBのチェックをしない」という習慣と闘う(笑)ことになる。少し前までは、FB無しでも何も困らないときがあったわけだが、2013年から使い始め、「友だち」が300人を超えたあたりからFBに対応する時間が増えた。

             

             正直、今現在の自分にとって、FBに書かれていることは、絶対的に必要な内容ではない(もちろん「友だち」が、あげて書いているくる内容に文句をつけるつもりは全くない。「友だち」が書いたことが、いつも自分に興味があるはずだという方がおかしいのだから。)のだが、おもしろかったり、自分も「そういえば」的な感じでコメントを入れたりすることが増えてきた。

             

             「いいね」等のクリックはしなくてもいいはずなのだが、することが多くなる。しだいに、「いいね」とか「うけるね」など、どの選択肢をクリックするかということ以前に、クリックする方がいいのか、しなくてもいいのかという、クリックするかしないかということを判断せず、評価選択をすることが当然のようになってしまった。

             

             また、自分の投稿の「いいね」の数を気にするようになってしまった。本来、「いいね」の数はわたしにとってどうでもよかったのだ。「いいね」が多いとうれしいとか、少ないと残念……などというレベルにはまだ達していない(笑)が、数を視覚にいれることが多くなったということだ。

             

             もう一つ、これはかなり前から感じていたのだが、FBでやりとりしていると「毎日会っているみたいだね」と思うようになってしまったことだ。同窓会で一年ぶり、数年ぶりに会っても、「久しぶり」という感じがしないのだ。これは、いいことなのだろうか?……と思うようになった。

             

             こうしたいろいろな問題。それから、私の場合はメッセンジャーをFBと一緒に使っていたので、最初は便利だなと思っていたが、だんだんメッセンジャーでのメールが増えてくると、返事に時間がかなり取られる。しかも、即レスは無理と言いつつも、できるだけ早く返信しなければという「意識」が出てきてしまって、PCにしばられるから、自分にはあっていないなと思うようになった。この便利さが忙しさを増加させていることに、今更ながら気づき、確認できた。ということで、しばらく停止。

             

             まだFBのアカウントは残したままだが、しばらく、あるいは、ずっとFBは停止である。

             

             

             

             

             

             

             

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              4月24日(月曜日) 女親論議:宮台真司さんと尹雄大さん、そして私

              • 2017.04.24 Monday
              • 22:26

               

              先日の『お・は』『ち・お』で開催した宮台さんと尹さんの講演会、実は、正式には「『お・は』公開取材講演」のようなもので、尹雄大さんが宮台さんと話をしながら、聞き出すという形をとっている。それが五回目。

               

              「女親と娘」の話、「女親と息子」の話。それぞれからはじまった。宮台さんは冒頭「今までのような家族、つまり一般的にイメージされるような家族はもう望めない」と言う。これは、いわゆる父母子ども2人で、アパートあるいは一戸建てに住んでいるような近代家族のようなことだと思うのだけれど、私たちが家族を語るときに、無意識に前提としていたり、「望ましい」と仮定しているような家族だと思って良いだろう。

               

              このことは、かなり重要なことで、いまどき家族と言ってもいろいろな形があるし、構成員だって、いろいろだ。これを昔に戻そうとするのが今の家族支援法みたいな安倍晋三が一生懸命「再生」させようとしている家族だ。まあ、「昭和の記録」くらいにしか出てこなくなった家族だ。むろん、そういう家族がいいとか悪いと言っているのではなく、現実的にはそんな非常に少数で、絶滅危惧種的だという認識が必要だと思うのだ。

               

              さて、女親と娘、女親と息子の宮台的な展開は、ぼくが予想したようにはいかなかった。まあ、自分自身が通俗的だったということにすぎないのだが……(笑)。尹さんとの事前打ち合わせでは、「母が重い」娘の話や、息子に自立を促しながらも、片方でいつまでも「外」へ出さない女親の「ダブルバインド支配」の話をしようとしていたが、すぐに、宮台さんは、そのあたりはあまり触れずに、それはお互いが自律していないだけの話だろうねということになった。おそらく宮台さんは心理学的にラカンやフロイトを念頭に入れて、すでに整理しており、あまり興味がわかなさそうだった。

               

              それよりも、最近の子育てに関わる、宮台さんの連れ合いさんとのトラブルについての話になり、結果的には、今日の話は、そっちから切り込んでいくことになった。その内容についてはプライバシーに配慮(笑)して詳しくは書かないが、いろいろな子育てトラブルの根っこには、圧倒的に子どもに近い女親と子どもの間にどうやって「社会」を入れ込むかということに尽き、価値観を一様にせず、揺らぎの中に子どもをおくことが重要だと述べる。そして、その「社会」を入れ込むのは、父親とは限らず、斜めの人間関係も重要だと指摘する。つまり、近所のおっさん・おばさん等々である。

               

              今時、こういうおっさんやおばさんは「安心安全の敵」のように思われがちだし、なかなかいないけれど(こちらも希少価値が高い)結局は、子どもにとって一番重要な社会性=未熟さからの脱皮力を育ている要なのだと私も思う。「規則は破るためにある」と子どもに教えるという宮台さんの論理は、同時に、どの程度までそれが許容されるかとか、行きすぎないかとか(これは、あらかじめ決められた線などない)を身をもって理解して判断力を身に付けるという課題が付随しており、かつ避けて通れないことだと論じる。

               

              なかなかうまくまとめられなかったが、なんだか、いつもおもしろい宮台さんと尹さんだった。

               

              はじめに私自身が予想した「女親の厳しさ」を差別とかフェミニズムとは若干違った角度から考える話だった。

               

               

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                4月12日(水曜日) 自然の環境に人間は「勝利」できるか?

                • 2017.04.12 Wednesday
                • 13:29

                 

                今年も、今週末から、小学校で理科を教える。毎年、最初の授業では、自己紹介の後、おもしろい実験やお話をしながら、「科学」とか「理科」は一体何を勉強するんだろうね?と問いながら、しばらく楽しむ。

                 

                5年生は「天気と雲」、6年生は「燃焼」の学習から始まる。ところが、昨年は、九州で地震が起き、前震や本震が報道され、阪神淡路や東日本とは異なる揺れ方や被害の状況に頭が混乱した。

                 

                すぐに地震のことを教えるべきだと思い、データやリアルタイムの熊本の状況を知らせながら(熊本日々新聞を一ヶ月購読した)、「地球と自然」というテーマでも授業をした。

                 

                こうした自然の災害があるたびに自分自身が学習し、それなりにどんどん知識や研究成果を知ることになる。そして、意外と自然というのは分かっていることが少なく、予測や将来のことになると、とんでもなく分からないことばかりである。

                 

                子どもが「先生、私たちの地域には南海トラフがやってくるって言われていて、おばあちゃんの所には津波も来ますが、防ぐことはできないんですか?」と聞く。こうした素朴すぎる質問が、一番きつい。

                 

                人間の歴史は、自然との闘いの歴史だと言われるが、なかなか自然に勝利することはできない。なぜなら、自然を破壊することは、人間も破壊されることになるからだ。自然環境の破壊は、人間の自滅行為でもあると歴史は教えてくれる。じゃあ、震災や洪水に「負け続けてもいいのか?」と言われれば、そうはいかないぜ、と断固思う。

                 

                「自然との調和」というと、聞こえはいいし、のどかな自然ならそれもいい。しかし、自然災害にはどう対応したらいいのかという反問に正解はないだろう。子どもたちと、考えれば考えるほど行き詰まってしまう。

                 

                いままででも、被災したみなさんにかける言葉が見つからないのだが、自分の経験から言って、子どもたちが元気なうちは、大人だってなんとかなると思っている。もちろん、子どもといっても、自分の家の子どもだけでなく、地域や学校の子どもたちも含めてである。生活の立て直しを、すぐに見通せないとしても、未来に生きる子どもたちのためになら少しは踏ん張れると思うのだ。

                 

                原発や地震の避難が続いている今、不安で気持ちの落ち着かない子どもたちや、障害のある子どもたちの心細さはいかばかりだろうか。察するにあまりあるけれど、今こそ学校で友だちと笑顔を!と思う。

                 

                原発を、まだ再稼働しようという、気持も理屈も分からない……というか、輸出までしようという発想は、どう考えても、「どうなっても知らんよ。責任なんか取るつもり無いから」ということなんだとしか思えない。ミサイルとかサリンとか難民排除という他の国を非難できるような日本ではないと思ってしまう。

                 

                K201605

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                  4月7日(金曜日) 教科書を教えるってか……??

                  • 2017.04.07 Friday
                  • 23:36

                   

                   子どもたちは、新学期に、ぴかぴかの教科書や練習帳を手に取ると、今までの、勉強のつらさも忘れて、学習への気持が高ぶってくるようだ。

                   

                   私は、新しい教科書を使うとき、いつも表紙の開き方からはじめる。表紙の折り線に爪をあてて、しっかりと、かつ、ていねいに開くのだ。中のページも繰るたびに真ん中に折り目をつけることは低学年のころからやっておかないとクセがつかない。

                   

                   名前もできるかぎり自分でしっかり書いてもらう。練習帳などは友だちが配ってくれることもあるから、名前の漢字に読みの難しいものがあれば、読みがなをつけてもらう。表紙の絵や図、表紙の裏や目次などもていねいに読んでいく。これから半年、あるいは一年間付き合うことになる教科書は大事にするというよりも、使い込むために丁寧に扱おうということだ。

                   

                   子どもたちに教科書の値段を伝えることがある。「全部で三千円から四千円するんだよ」とか、「理科の教科書は956円だ。そのお金はみんなのお家の人たちが払っている税金から出ているんだ」などと話す。「なくしたり、汚したりして新しく買うのは大変だからね」と使い捨ての文化の中では、若干説教臭くなるが、これも教師の仕事と考え、話すことにしている。

                   

                   昨年は教科書の出版と採択に関わる「不適切謝礼」問題が各地で起きていた。もう、わすれちゃっているだろうけど。当時の報道によれば全国どこの地域でも多かれ少なかれあるという。もともと、教科書は学校独自で選択していたものが、教育委員会が地域で広域に採択し、決めることになっている。

                   

                   教科書会社にしてみれば商品だからたくさん売りたいし、少しでは赤字になる。それは十分に理解できる、しかしホンネでは「以前は、現場の先生たちと話し合っていたんですが、今では、文科省の検定に通り、教育委員会に選んでもらうことに必死なんです」ということらしい。

                   

                   本来なら、教科書は子どもたちの声も聞きながら、現場の教師や親と創ったり、選んだりすべきだ。少なくとも各学校で裁量されるべきなのだ。責任を負うというのは、自分の為すべき事をはっきりさせることなのであり、教師ならば、どんな材料を使って、どう教えるか自らが決めることだろう。与えられた教科書「を」教えていれば責任を果たしたということではないと思うのだ。

                   

                   先日の道徳の教科書(これ自体が、はぁ?の世界なんだけど)で、和菓子屋さんとパン屋さんの問題があった。いろいろ論議はあるし、批判されて当然なんだけど、その文科省の付帯意見(これは、隠れた強制的な意見なのだが)のレベルの低さに、どん引きした。ただ、しょせん、教科書なんて、こんなもんなんだろうなと思ってしまう。
                   だから、いくら「良い教科書」であろうと、中身をよく吟味しながら、教科書「で」教えなければ、教師とは言わない。「検定済み」であろうと、「なんでもかんでも教科書どおりに教えます」では困る。それは、たんなる「検定教科書ソフト」のロボットにすぎない。

                  K201604

                   

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                    4月5日 ことの重大さをどう伝えるか?

                    • 2017.04.04 Tuesday
                    • 14:20

                     

                     ある日、子どもが万引き事件を起こし、親から「どうしたらよいか」と電話があった。担任していた子どもの友達のお母さんだ。しかも、今の勤務校ではない。「なんで、ぼくなんですか?」と聞きたかったが、親はそれどころではない。そうとう焦った感じが受け取れる。

                     

                     「学校へは電話した?」と聞くと、していないという。お店も、「学校には連絡しません」と言っているらしい。基本的に学校は関係がないのだが、連絡するかしないかは、親が、今度、子どもとどう接するかということにも関係する。信頼できる教師なら、連絡しておいて、今後、気になることがあれば教えてくださいと協力を依頼できる。

                     

                     とりあえず、子どもを連れて早く謝罪に行くことを薦める。「お金を払えばいいんでしょうか? 警察沙汰になってしまうのでしょうか?」と聞かれたので、いやいやお金だけの問題にしちゃだめだよと話し、警察に通報するかしないかはお店の判断だからねと伝える。話しているうちに、そのお母さんは泣き出し、「こんなはずじゃなかった、一生懸命育てたのに……」と言う。

                     

                     確かに、今まで何事もなく順調に育ててきたつもりの子どもが、こうした触法行為をすれば、親はびっくりする。情けない気持ちになり、うろたえて、世も終わりかという気分にもなろう。しかし、親としてはここが勝負所だ。親の面子よりも子どものこれからだ。めげてもしょうがない。

                     

                     うろたえる親を子どもが見て、「悪いことをしてしまった」と思うか、「何、あわててんの」と親を見下すかが一つの分かれ道だ。大抵の子どもには、あまり罪の意識はない。「まずいことやったな」という気持ちはあるだろうが、親が考えるほど「大変なこと」だとは思わないことが多い。だから、ことの重大さを子どもに知らせる必要がある。そのためにも、店の人にきちんと謝らせ、親も謝罪しているところを子どもにも見せなくてはならない。

                     

                     叱ることももちろん必要だ。しかし、これで終わりではない。二度三度とくり返すこともあるだろうと頭に入れて置かなければならない。一度で止めてくれれば、こんなうれしいことはない。しかし、またやるかも知れないと、ちょっと心の隅に止めておく必要がある。

                     

                     そして、二度目も、また同じように親子で謝罪をしに行けばいい。「何度言ったらわかるんでしょうか?」と母親が聞くことがあるが、「何度言っても分からないかも知れませんが、でも、何度でも叱り、説諭するべきです」と応えた。子どもは叱られてはじめて、親も怒っているということが徐々に理解できていく。「何度言ったら分かるの!」と言わずに、「何度でも何度でも言うよ」と根気よく付き合うと断言すべきなのです。

                     

                     でも、こういう困っている親を見て、「日ごろの育て方に問題がある」なんて、偉そうに言う親は、正直私は、苦手である。Ku20162

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