3月14日(土曜日)新型コロナ休校と3.11「大川小学校」を考える(前の続き)

  • 2020.03.14 Saturday
  • 12:12

 

 休校中の学校は、さまざまな状況変化があり、子どもや親だけでなく、教職員もそうとう混乱している。毎朝の職員打ち合わせの時間にメモが配布され、その日の予定が配られるが、前日に決めたことが変更されたり、修正が加えられたりする。そのつど、論議が起きて、そうとうつまらないやりとりもあるようだ。

 

 ボクが知りうる限りの話だから、全国どころか名古屋や愛知でも違いがあり、上意下達とは言え、これほど多様な学校状況も珍しいのかもしれない。子どもたちを比較的自由にしようという学校もあれば、二メートル間隔で私語禁止、黙々と自習という学校もある。

 

 少しでも楽しく学校で過ごせるようにという気持ちがある学校と、とにかく管理大好きの上意下達しか、ダメダメ岩石のような先生の多い学校との差は大きい。なんとかしたいと思うのは普通で、具体的にできることを探すというのが、筋論。先日も散歩していたら、以前教えた子どもたちが自転車で寄ってきて、「オカザキセンセ、退屈でたまらん、学校はじめてよ!」と言う。

 

「ボクが総理なら……今の総理はまずいけど……絶対安全と完全な保障はできないけど、子どもの免疫力が落ちてしまうから、すぐに開校しましょう」というだろう。「責任は!」と言われたら「前の安倍も責任とらないし……前例踏襲」とか言うかも。休みも長いと退屈になるのは大人も子どもも同じだろう。だが、問題は親たちや生活基盤そのものが崩れつつあるのだ。リスクなしの管理なんてあり得ない。

 

 先生の子ども監視活動もさかんで、盛り場じゃない、賑やかな商店街やモール街へ監視をしに行ったり、家庭訪問したりしておとなしくしているかを点検活動しているらしい。いったい、どうしろっていうのだろうか。子どもに「早くうちへ帰って、じっとしておれ!」とでも言うのか?

 

ボクだったら、「子どもを見てきます」とか言って、公園や広場のベンチに座って、ボーッと子どもたちの遊んでいる姿をみているかなと思う。静かに見守る…ということで。教科書にとらわれない勉強もやり放題。学校に来ているなら、せめて運動場で自由に遊ばせたい。ところが「2メートル以上近づくな」などと言って遊ばせる???なんてことはできないから、自由で、いいんじゃないか。鬼ごっこはタッチしていいですか?なんて話もあるらしい。

 

「オカザキセンセみたいにして、それで、感染したらどうするんだ」と言われるかもしれないが、とりあえず熱も平熱、体調も悪くなく、手洗いうがいと、マスク(エチケットね)していて感染するんだったら、しょうがないだろうと思う。絶対感染させるなというなら、一切の外出は禁止だってことになるし、大人だって同じレベルだからね。それはどだい無理な話だ。できる感染予防と、できもしない感染予防がある。みんなで責任を取り合い、分け合うしかない。

 

 最近、特に強く思うのは「他者が得をすると、自分は損もしていない立ち位置なのに、『あいつだけ得をしてる』と怒り、感情をいらだたせる」そんな人が目立っている……ように思う。子どももそういうことをよく言う。忘れた子に赤ペンを貸すと、その子に向かって「せこい」「ずるい」という。つまり、「忘れたんだから、なしで我慢すればいいのに、ぼくはちゃんと忘れずにもってきたんだから、もってきて損した、ずるいよ」ということだ。

 

 親(=社会)の小さい頃からの子育ての「効果」だとは思いたくないが、「忘れて困っている子を助けるのは当たり前じゃないの」ということがなかなか常識にならない。何かしら「忘れた方が貸してもらえるし得するからラッキー。これからも忘れようぜ!!」と思っているんじゃないかと悪魔の推察をするのだろう。この考え方は昔から、教員には多かった、確かにね。でもね、忘れて「困っている」、それが原則。貸せないものもあるけれど、「貸せるのなら貸そうよ」と思うほうが住みやすい。

 

 いつも忘れものをして隣から借りている子がいたら、「君さあ、貸してもらってお礼を言ってよね。 貸してあげている隣の子もそれなりに困るんだよ。君を嫌いになっちゃうこともあるんだよ。大人は借りたものの借りはお礼を言って必ず借りを返すというのが基本だぜ。君も大人になっていくんだろ、そろそろ、努力して忘れないようにしてくれよ」と指導や注意のバージョンを上げていけばいいのだ。もちろん注意したらすぐに効き目が出るなんて思わないのが原則。

 

 書写の用紙などもそうだ。「書写用紙は家から持ってくる」というのを原則としている学校と、3枚は学校で配布するけど、足らないと思う人は自分で用意しなさい……という学校などいろいろだ。日本は、公教育なのに、基本的に学校は個人使用のものは個人負担の原則があるけどね。まあ、ボクは自分の学級でやるとき3枚は学校で買った書写用紙を配布していた。余分に用意して、交渉しだいでおまけをしてたけど。

 

 「困っている子には手を差し伸べる、みんなで助け合う」というのと、「それは自分でなんとかしなさい。なんとかできないなら我慢するべき」というは、相互扶助論と自己責任論ということになる。しかも、それに平等論が重なるから余計面倒になる。

 

 休校で学校に来た子に勉強を教えればいいじゃないかとボクは思ったが、先生たちに聞くと、「学校では来校する子と家にいる子が不平等にならないようにしなくてはいけないので、学校に来ている子だけに勉強を教えると言うことはできないのです」というムードが支配的らしい。やれやれと思う。で、休校中の学習や課題は、家庭の自己責任にゆだねるわけでしょ……これってなんだかなあ。そういう人に聞きたいんだけど、毎日休まずに学校へ来ている子どもが「毎日登校しているのに、勉強ができないんだけど、どうしてですか?」と聞かれたらどうするんだと思う。できふできだけは「不平等」に鈍感ですな。勉強のできふできだけで学校の意味や意義を語るのはやめた方がいい。

 

 この問題は福祉政策ではメイン課題の一つにつながるのだ。

 

 閑話休題。コロナ休校も、自己責任論に終始すれば、「あいつが悪い、こいつが悪い」の他責感による他者排斥、他者攻撃そして、恐怖増大に結びつく。恐怖の増大はさらに他者を攻撃し離反させる。

 

子どもたちも登校したらそれなりに面白かったということでいいし、親だって「仕事に出かける親が、子どもを学校にあずけておいてだめじゃないのか」という親の責任論に抑圧されず、自分を苛む必要もない。

 

 学校や家庭それぞれの場所で、まず自分の頭で考えることが本当に重要なんだよ。そして、人の行動や動きは、常に助け合うとか支援し合うという社会性を帯びるのだし、それが常識になってほしいと思う。石巻市大川小学校の教訓(学校というより教職員一人一人の判断が問われるとき)が本当に生きていないのではないか。今こそ、学校の3.11なんだ。同調圧力に抗していかないと!

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    3月11日(水曜日)東京大空襲の翌日、震災の日……ではあるけど、コロナについて。

    • 2020.03.11 Wednesday
    • 21:40

     

    いろいろと書きたいことや書かなければならないことがたくさんあったのだけれど、このブログに挙げることができずにいた。

     

    3月は、自分が話す講演がいくつか中止になったり、自分の体調でやむなく延期させてもらったものもある。ここ一ヶ月たらずはコロナで毎日、ボクの周囲も大騒ぎとなった。しかし、Web情報や感染症本・文献でいろいろと勉強させてもらったけど、結局、普通の人間のやれることはシンプルで、罹患したら軽く済むように努力するほかないということが分かった。*『感染症予防必携 第3版』なども買ってしまった。

     

    感染症の歴史をひもとけば、こうしたことは人類史上何度もあって、そのつど、人間は多少のリスクを負いながらも生き続けている。生き続けることができるということなんだなと思った。これは楽観論ではなく、正しい認識だとボクは思っている。原則は、「ウイルスは共生指向」なのだということだ。宿主(人間ね)を殺しちゃったらウイルスも生きていけないということに尽きる。だから、まず、原則は、共生できるだけの健康さがあればよい……とボクは思っている。象徴的かつメタファーとして言うならば、「トイレットペーパーがなかったら、手で拭いて、あとで手を洗えば良い」というくらいのたくましさがあればいいということだ。

     

    もちろん体調の優れない人や、病気がちの人、持病のある人は 人一倍、二倍気を付けるべきだし、社会的な支援や防御は用意されなければならない。

     

    しかし、「感染を確認した人数」の発表を毎日するのもいいけど、「感染を確認した人」の中で、無症状の人、回復した人、退院した人の数も教えて欲しい。症状のでなかった人、軽かった人、重い人の分類数も大事なんだけどね。新型コロナの危険度がどの程度かが分かる。

     

    罹患したら休養して、それでもダメなら、直ちにできる限りの治療をするしかない。これは社会的医療の主眼である。国民皆保険制度とその中身が充実するようにすることだと思う。

     

    テレビを観ていると、言ってることは別に間違った情報を出しているわけではないのだろうけれど、いわゆるエコーチェンバー現象で、毎日のことで、狭いテレビの出演者も常連が多くなり意見や情報に偏りが出てしまうし、視聴者も必要以上に繰り返し情報を注入されることで「冷静さと落ち着き」を失っているように思う。だから、観ている人も同じエコーチェンバー状態になる。

     

    番組中に1時間しゃべっていても、感想や思いつき発言を除いて、必要な情報を整理したら三分くらいで終わりそうだ。

     

    それに比べて、国会で、官僚のメモをもらって、自分の感想を付け加えてしゃべる政府の面々の論理性のなさや、会話にもならない、質問―回答にもならない「答弁もどき」のTwitter的発言(言いっぱなしの大声のつぶやき)を見聞きしていて、とんでもないなあと思わない方がどうかしている。正直いうと、格調低い政府だよな。

     

    「やたらと、野党が与党の揚げ足を取っているとか、重箱の隅をつついている、不毛だ」などと揶揄する人がいるとしたら、おいおいもっと真剣に国会を観察しろよといいたい。これ、放置しておいたらダメだろと思う。もちろん「安倍ちゃんが大すきだから、何しても好きなんだぁー」と言う人は除く。すくなくとも政治というのが、自分たちの生活を左右すると言うことが分かっている人は冷静に国会を観るべきだ。50%程度しか有権者が選挙に行かない日本がこのざまだ。

     

    さて、登校に制限をかけた学校に通っている子どもたちの様子は様々で、いろいろと友人知人に聞くと、けっこう楽しくやれているところと、強制収容所になっているところがある。要するに教員の意識の問題と校長の裁量の問題に尽きる。そろそろ、休校も打ち止めになると……? 思うけど(多分)。

     

    (休校措置は学校にとってなんだったのかという続きは次回)

     

    ジャパンマシニストやボクのFBでは、ボクの動画を公開している。今のところ、うんこは投げつけられていないので続けている。……と言っても二回目が三月の十三日に収録される。乞うご期待……しなくていいから。

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      1月6日 今年も普通にはじまった:どうぞよろしく。

      • 2020.01.06 Monday
      • 22:07

      暮れから正月にかけて、『サピエンス全史』『ホモ・デウス』各上下をぼちぼち読みながら、駅伝や「オリンピックイヤー」という浮かれ報道に辟易しながら、1月が始まりました。とにかく『路線バス旅』の再放送と、新「路線バス旅Z」を楽しみました。また、購入して数年(笑)たったけど、やっと『レ・ミゼラブル』フランス版TVシリーズ完全版(DVD4枚組)を6時間しっかり鑑賞。それなりに充実した、つつましい冬休みでした。アメリカの暴走に暗澹たる気持ちです。

       

      1月5日(日曜日)「おもしろ学校職員室」の冬の研究会

      おもしろ学校のメンバーがあつまり今年もいろいろと楽しく学ぶことができた。9人あまりの研究発表で、一人20分程度という短いものだが、中身はぎっしりで、反省としては、次回からは、もう少し時間を長めに取って実施しようということになった。

       

      それぞれが面白い内容なのでそれを書いていると終わらないのだが、「あごがはずれるくらい面白い教材・絵本」を探した成果や、四国はなにが四、九州はなにが九、越後はなにを越えた後なの?筑前の筑後の前後って?という、うろ覚えの知識を整理する社会、大麻とアヘンの問題、化学バー訪問期、もの作りの一年、職場の痛烈な愚痴と本質的な批判、朝鮮訪問記、風邪薬に入っているのはほとんど効力のないものばかりという唖然呆然の医学。

       

      ボクは「日本の分断」という吉川徹さんの新書を元にして、「学歴」の社会的問題をレポートした。なぜこれを選んだかというと、最近は「格差」「貧困」「階層」「階級」といろいろな視点からの社会分析がされてはいる。書籍や論文も豊かになっている。だが、現実社会調査をもとにして読み解いてみると意外なことが分かってくるというのが吉川さんの主旨で、そうした本書の内容で、自分の現状認識を再度確認したかったからだ。

       

      読むきっかけになったのは、ボク自身が身近にいる人と話すとき、相手のほとんどが、「大学卒」のことが多いなあと改めて思ったことだ。職場はもちろん、研究仲間や講演会などもそうだ。いくら45%くらいが大卒になっている現在だとしても、かなり偏っているなあと気づいた。そこで、もう一度、現在の日本の社会構成状態を点検してみたいと思ったのだ。そこで、出会ったのが吉川徹著『学歴と格差・不平等』(東京大学出版会)である。とても面白かったので、最近吉川さんが書いたものはないかと探しているときこの『日本の分断』を知り、今回の研究会で話題提供しようと思ったのだ。(一番新しいのは、『分断社会と若者の今』(大阪大学出版)で吉川編著)

       

      もちろん吉川さんの分析に全部納得しているわけではない。ただボクが教員や保護者と会って話をしたり、相談を受けたりしているときに感じる「共感」「違和感」「驚き」「納得」のもとが、この本で分かったような気がしたのだ。ここで言う「分断された社会」を視野に入れて考えをめぐらせていなかった。社会は流動しているといわれているのに、格差などが固定していると言われているのはなぜか?という問いから始まるこの本に学んだなあ。

       

      1月6日(月曜日) 「香害ガイダンス」

      午前中、昨日と同じ場所で、香害と化学物質過敏症の学習会に参加する。じゃぱまの松田さん(『お・は』編集部)のレクチャーを一時間ちょっと受け、その後で、ボクが学校とどうやってこの問題を付き合っていくかという話をした。

       

      松田さんのレクチャーでは、嗅覚の感度?をためすために、いくつかのサンプルの臭いをかぎながら、「何の臭いか?」充てる実験をした。嗅覚は実は脳神経と深い関わりがあり、化学物質や異物への反応を複雑にしているという話だった。

       

      松田さんは「嫌な臭い」「嫌いな臭い」ということをまずはっきりさせていくことが重要だと言う。めまいや不定愁訴など、大人だけでなく子どもたちも原因不明と思われることで体調を崩す。「まさか臭いで」ということは担任も養護教諭も考えないことが多い。そうなったとき、教員はせめて「おかしいねえ」「どうしたんだろう」から始めて欲しいのだが、学校は「この子はヘンだ」「うそをついている」などと決めつけがちである。塗料のシンナーとかならみんな嫌な臭いだというが、今の香料や臭いのない化学物質で発症してもなかなか信用してもらえない事が多い。学校や大人の側の学習が本当に不可欠なのだ。

       

      松田さんが「臭いも社会的環境や暮らしを表している」という主旨の話をした。確かに、「良いにおい」が「貧しい臭い」だったりすることもある。家庭訪問で玄関に入ると異様に「良いにおい」だったりすることがある。生活の臭いを消すためにふりまいた消臭剤や芳香剤が、その臭いで生活を問題と質を表現してしまうのだ。「くさい」という言葉がいじめで多様されるが、深いところにこの臭い問題はあるような気もする。

       

      臭いや化学物質、マイクロカプセルの問題は、学校の本質的問題を明らかにするし、社会の暮らし方そのものを問い糾すことにもなるなと思った。とりあえず、まず、芳香剤や化学物質に、学校の教室で苦しむだけでなく、それらを服にしみこませて、持ち帰り家でも苦しんでいる子どもたちをまず、なんとかしなければと思った。

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        10月26日(土曜日)「子どものワケわからんさ」についてのお話:NPOさんまクラブ訪問

        • 2019.10.28 Monday
        • 11:38

         

         滋賀県甲賀市にある水口幼稚園のホールで親御さん中心にお話をすることになって、1026日の土曜日の午後おじゃました。

         

         米原から近江鉄道を使って96分。米原で降りて近江鉄道に乗り換えをするのだけれど、なんだかデジャブ。前に一度この駅には来たことあるなあと思う。一時間に一本程度の貴生川行きに乗る。各駅停車でのんびりと走る。この路線は完全に赤字なんだろうなと思う。でも、これがないと本当に困る人もいるのだ。なんとか、維持してもらいたい。

         

         水口石橋という無人駅で下車して歩いて五分程度の会場に向かう。教会の隣にある幼稚園の職員室でしばらく話す。幼稚園にはとてもりっぱな遊具があり、こんな幼稚園で毎日遊べたらいいなあと思った。自由には危険が伴うが、そこで得られる体験やわくわく感は成長には絶対に欠かせない。いつも安全安心では、たくましくならない。その適度さが重要で難しく、子どもを育てる親や指導員の力が試される。

         

         このNPOさんまクラブは、放課後児童クラブと放課後等ディサービスを運営している。理事長はずっと『お・は』『ち・お』を読んで、『トロプス』以来、ボクを気にしてくれていたらしい。ある意味で同士的感覚を持ってしまった(笑)。理事長や迎えてくれたスタッフが語る、その苦労やおもしろさを聞きながら、子ども相手の仕事は「たおやかさ」と「したたかさ」の両方がいるんだよなあと、改めて思った。

         

         メインの講演は、90分のボクの話と15分程度の質問コーナーで無事終了。親御さんや指導員さんにとって、少しでも役立てばうれしい。質問も、日常的な問題ではあるけれど、子どもの成長について言えば、深く本質的なもので考えさせられるものばかりだった。

         

         終わった後、放課後クラブとディサービスの施設に案内してもらったが、とても立派というか、おしゃれな施設で、もともとは豪邸だったのを引き受けたらしい。木工細工や自然の恵みを上手く活かしながら毎日過ごしている子どもがうらやましい。もちろん、子どものワケのわからなさは、全国共通なのだが(笑)。

         

         部屋も数多くあり、近くには公園もあって、とても充実した毎日が送れているようで、うらやましかった。甲賀市は人口9万人程度だけれど、地域は広く、まだ田舎の雰囲気もある。手裏剣シュッシュッシュなのだ。

         

         帰る前に、夕飯をごちそうしてもらったが、お米がおいしい。土鍋で炊いているのだけれど、おかずなしでもいただける。話がはずんで、いろいろと私的なことまで及び、どきどきしながらも、おもしろくためになった(笑)。理事長もボクの住んでいる日進市と浅からぬ縁があり、はじめて会った気がしなかったというのが正直な感想だ。一緒に来た可愛い2年生の子と握手してさようならである。

         

         いつもながら、訪問する場所と人に恵まれているなあと自分の幸運さに感謝である。

         

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          9月15日(日曜日)「登校拒否を考える会・静岡」でのお話

          • 2019.09.15 Sunday
          • 18:46

           

           今日の午後は「登校拒否を考える会・静岡」という老舗の市民の会に伺って、学校へ行けない、行かない子ども達の話をさせてもらった。技半から4時半までの3時間一本勝負である。

           

           もともとは、『おそい・はやい・ひくい・たかい』106号ができあがって、一段落ついたときにこの会の会報を読んだ。この老舗の会がずーっと活動を地道にすすめていることに敬意をはらっていたが、きっかけは、一度伺ってみようと思ったことに始まる。

           

           何度か、手紙のやりとりの後に、今日を迎えた。会場は60名くらいの人が入っており、不登校の子を持つ、持っていた、持つかもしれない人ばかりだと思う。教員もいてくれるとうれしいが、いなかったかな? 調査してるわけじゃないんだけど。

           

           いくつかのポイントに絞って話したが、結論的に言うと、本人が学校へ行こうという「気持ち」があって、行くエネルギーと環境が整わなくては再登校は難しい。だが、学校へ行くことができるようになることが、必ずしも「善きこと」とは言えない。自分を傷つけながら行くことはないし、行くべきではないというのがボクの主旨である。子どもは元気であれ!というところが基本だという話。

           

           そして、親のしんどさやめんどくささは当然あるが、それを回避することができるとは思えないということも付け加えた。子育てはどんなときも面倒であるし、エネルギーのいることなのだ。そのことは親は肝に銘じる必要がある。子どもと関わる時間が延びているのも現代社会の特徴だ。それは悩ましいことかもしれないが、子どもに責任はない。もちろん、懸命な親にだって責任はない。親自身が元気になれるような暮らし方をしてほしい。

           

           子育てが必要以上にしんどいのは、おそらく、社会的寛容が低下しているからだろうと思う。物の所有水準は全体的に上がっているのに、気持ちや気分は落ちて、緊張や差別感だけが強調されているこの社会はかなり大変なのだ。ボクは、親子のつながりを、家庭と外のつながりで緩和する事を薦める。親が外とうまくつながれれば子どもの過剰な緊張も緩和されると思うのだ。とりあえず、親の子どもへの視線だけはソフトに少なくなる。

           

           「親の緊張は、子どもの緊張。先生の思いは、子どもにとって重いことが多い」また、どこかへ行きますから、そのときは、どうぞよろしくお願いいたします。

           

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            8月29日木曜日:夏休みが終わるぅぅぅぅぅぅ 不登校について

            • 2019.08.29 Thursday
            • 10:07

             

             夏休みもそろそろ最終コーナーを回った。すでに、夏休み終了した地域もある。教育改革の影響で、授業時間数確保とやらで、夏休みを削ったり、三学期制を二学期制にしたりと試行錯誤どころか支離滅裂の学校であったが、もう「おなかいっぱい」でパンクしそうなことは確かだ。

             

             不登校と登校拒否の特集を『おそい・はやい・ひくい・たかい』106号でやったのだが、その最後に、ボクは「学校に行かなければ学べない」に疑問を呈した文章を書いた。学校はもちろん全面否定されるべきところではないが、かといって全面的肯定や、誰でもが行くべきところだというのは間違っている。せいぜい、通過儀礼的、まあ一応行く方がいいかもしれないだろうと思うこともまちがってはいない……という程度だと思う。

             

             学校のいいところは、勉強ができるところというよりは、みんなが生活しているところ。つまり、「社会」だというところだ。つまり、不登校や登校拒否でも引きこもりでもいいんだけど、いずれは自分以外の人間といっしょにある程度の距離を取って暮らしていくことになると思うからだ。家族だってある意味同じである。

             

             その他者との距離の取り方はいろいろだし、何がいいのかは人それぞれだ。だからこそ、無理矢理行かされることは避けたい。でも「いいことばかり」の社会はあればいいけど、多分ない。でも、ちょっとした優しさや気遣いで肩の力が抜けることもある。そして、社会や自分自身の根本的で面倒な問題だって、解決できることと、できないことがあるだろう。でも、生きること、暮らすことをやめることはない。

             

             世の中はSNSをはじめ、感情、とりわけ不満やいらだちをそのまま放出できるシステムが多くなり、そのせいで、テレビやメディアの矜持もぐっとハードルが下がってきた。つまり、「ウケればいい」という全体主義つまりそれは、自発的隷従なのだけれど、その準備が着々とできあがっている。

             

             だから、「登校拒否」の時代は子どもの意志が反学校という形で出てきたけれど、今は「不登校」という非学校という感じがする。でも、その非学校の社会は「自律性」が逆に重視される。学校へ行かないことはある意味で勇気ある選択なのかもしれない。「不登校のしんどさにくらべたら、学校行ってる方がラクだよ」とつぶやいた子どもがいた。イリイチがいたら、「それがまさに学校化社会です!」と言うだろう。

             

             行く・行かないどちらも子どもにとっては厳しいのだ。こんな時代にした責任を誰かに押しつけるつもりはない。だが、すくなくとも、今「よかれとおもってやっている改革」がほんとうにいいものなのかをしっかりと吟味してほしい。「よかれと思ってやった」その結果がこうなんだから。

             

             ボクは「子どもは放っておくべきだ」というのが原則だと思っている。つまり、それは放っておいても、そこそこ生きられ、成長できる環境(社会)を私たち大人が作る責任があるということだ。簡単ではないが原則だと思っている。

             

             余談だけれど、つい先日、内田良さんと赤田さんの三人(大内さんもそばにいたけど)で、新しい本の対談をしたのだが、最後に部活をやめたらどんないいことがあるか?とそれぞれが語った。ボクは「少子化に歯止めがかかる」とつぶやいた。学校に「住居」を移しているセンセイが五分の一くらいならいいけど、私生活を充実させようとするセンセイがもっともっと増えれば少子化は歯止めがかかると真剣にボクは思っている。

             

             夏休み研修なんかしないで、私生活を充実(まあ、中身はいろいろあるけど)できた先生はきっと、余裕のよっちゃん(これ、昭和ギャグ?)で、子どもにも「適当」につきあてくれるんじゃないかと期待する。甘いかな(笑)。

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              8月13日(火曜日)梨屋アリエ著『君の存在を意識する』のこと

              • 2019.08.13 Tuesday
              • 09:11

               

              『君の存在を意識する』 梨屋アリエ 著 ポプラ社2019/08刊

               

              「……そこは、留美名が下見をして決めた。待ち合わせ場所で変なにおいがしていないか、周囲の建物から苦手なにおいがながれこまないか、強い香料を発している人が通り過ぎても空気がこもらないような風通しがあるのかを。 

               それを考えると「配慮」って、配慮される側も意外と準備をしているものだった。どちらかが一方的にして、されるほうはされてるだけというわけじゃないんだ。わたしたちは会って話すという目的のために、お互いにそうする必要があることをしているということ。

               配慮とは、する/されるの一方通行じゃなくて、両方が一緒になにかするのに必要だから、どちらからも矢印が向かい合っているものなんだ。だれかが勝つためじゃなくて、一緒に生きていくのに必要だから成立しているーーーみんなでそう思えたらいい。」

              318頁より

               

               この本は、書くことや読むことが元来苦手で学習に取り組めない子や、自分の性を男女にわけることに違和感を持ったり、においなど化学物質に過敏症だったりと、他者には見えにくい「障害」(作者は「困難」と)を持った子どもたちが「普通」という偏見の抑圧に対し、自分なりに向き合っていく物語です。そして、彼らが向き合うとき、彼らの存在を認める他に仲間がいるのです。

               

               書店で思わず手にとって、チラ読みし、すぐに300頁近いこのYA小説を買っていました。その足でコメダに向かって、読み続けました。

               

               こういう小説がやっと自然な形で出てきたんだなと、ちょっと感慨深かったです。多様性や個性、ダイバーシティなど「言葉」は増えてきましたが、依然として「異物」として排除や差別があります。「存在を意識する」という表題にあるように、意識する前に条件反射的に「配慮的排除・隔離」がまだまだ学校ではあります。

               

               登場人物や無邪気で無知なモデル化された教師たちが、リアルなやりとりをしています。ボクにとってはあるある話です。決して「克服」が終点ではないのです。友だち、親子、その辺にいる人 が 分かろうとすること、わかり合うことをあきらめないことが大切なんだと、ボクには読めました。

               

               先日、矢部史郎さんの『ゆめみる名古屋』を新聞で書評しましたが、あのときの苦労にくらべ(笑)、襟を正して『きみ意識』のことをここに書きました。たくさんの人に読んで欲しいと思います。

               

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                8月6日(金曜)福島ほっこり保養のこと

                • 2019.08.09 Friday
                • 16:40

                 

                上の写真は、保養の最終にいつも行われる、お別れの会「またね!パーティ」だ。ボクはギターで三曲歌いました。

                 

                今年も、福島から子どもと保護者を迎え、一週間あまりの保養活動に2日間参加した。「アンダーコントロール」だという安倍くんの虚言で2020東京オリンピックも「復興五輪」とか言っているけど、ほんとに「嘘も強気で言えば本当になる?」ヒットラーも言ってたけど、なんか、戦中戦前みたいになっている。

                 

                滝川クリステルの「おもてなし」の映像がフェイクアピールだったことについては、ホント残念だ……って思っていたら昨今の結婚話と名古屋市長の無教養な発言でもう、暑いし、勘弁してよー!やれやれと汗を拭いて座り込むしかない。座り込んでる場合じゃないのだけどね。

                 

                来てくれた子ども達とは「夏休みの宿題」のサポートということで、あいも変わらない「読書感想文」のお手伝いとなった。「かみさまにあいたい」「きみ膵」など読んではいるが、登場する人物に対する子ども自身の気持ちや、感想を出してもらうのには、こちらのスキル(笑)が必要になる。ジジイであるボクと、「きみ膵」の愛について中二の女の子と語り合うなんてのは、「キモッ!」って言われてもやむを得ない(笑)。子ども達と他愛もない話をするのもほっこりする。毎年会う子もいて、どんどん成長していく。一緒に「坊主めくり」もした。

                 

                読書感想文なんて読書を嫌いにするためにあるようなもので、とんでもないことなのだ。そりゃー好きで得意な子はいいよな。でも、世の中には「読む」ことさえ困難な子どももいるし、ましてや、原稿用紙三枚以内にまとめて、他人に読ませようとするには、そうとうな熟練が必要になる。自由選択にしてほしい。

                 

                子ども達と話をすると、最初はちょっとぎこちないのだが、どんどんユニークな発想が出てくる。最終的にはそれをまとめて感想文いっちょうあがりである。

                 

                夜には「ママタイム」というのがあって、九時頃から学校や地域の話を聞く、相談になることもある。お母さん達が、それぞれ厳しい状況の中で生活していることがよく分かる。子どもに被曝線量測定バッチをつけさせるかつけさせないかという選択がある。保護者が、地域と他者からの視線の圧力で「いりません」というか、「必要です」と言うか……そんな厳しい日常がある。

                 

                福島はまったく福島だった。復興五輪なんてやっている場合ではない。つくづくそう思うのだ。

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                  7月7日(日曜日) 『サフラジェット』と 男と女の間の「差別と疎外感」

                  • 2019.07.07 Sunday
                  • 08:51

                   

                   土曜日の七月六日は、日進市で「わいわいフェスティバル」という市内の団体が集ってのイベントがあった。ボクは男女共同参画的映画上映の後の意見交流会のコーディネイトをすることになっていた。

                   

                   上映の映画は『未来を花束にして』(原題『サフラジェット』)という今から100年前19世紀から20世紀にいたるイギリス女性参政権運動の実話を基にしたものだ。この映画のDVDも持っているので、数回見たけれど、毎回興味深く学習している。この過激さがいい。

                   

                   今から見ると、素朴に過激な運動である。ビラまき、街頭演説、石投げ、ちょい爆破、ガラス割りなどを女性たちがやっている。結果的にはイギリスでは1928年に21歳以上の女性に選挙権・参政権が「勝ちとられる」あるいは「与えられる」ことになった。この時代は、女性への抑圧状態はかなりで、賃金格差、長時間労働、性的な虐待から、親権の剥奪など数え切れない。もちろん「今だってそうだ」と思うけど。彼女らは繰り返しへこたれずデモや抗議をし、度々逮捕され、警察官から無差別的な暴力を受け、極めつけはハンストをする彼女らに強制的に摂食させるという、まあめちゃくちゃな拷問を受ける。

                   

                   中でも、ボクが「ううむ」とうなるしかなかったのは、逮捕された女性を牢屋に入れるのでなく、「家の前へ置いてこい」と警部が指示するところだ。つまり、牢屋の拷問よりも、夫からの仕打ちの方が「効果的」だということだろう。ここんとこは、男であるボクは黙るしかないなと思う。つまり、これは現代でも共通する男性の在り方につながるのだが……

                   

                   上映後は20名くらいの交流会だった。そこではボクがコーディネイトということだったけど、短い時間なので、言いたいことを言って欲しいと思った。ボクが「男性も生きづらいことがあるんだよね」と言ってみた(実際ボクは男性の色々な相談を受けているからね)。もちろん「最近の女性は強くなった」なんていう通俗的な寝言を言うつもりは全くない。もちろん、学校現場で男子が意見表明がなかなかできなかったり、すぐ暴力的になったりするなど大きな課題はある。それは、旧来の男子が与えられていた「差別の下駄」と「女性の犠牲的支え」がなくなりつつあるということで、ある意味、女子と対等になりつつあるということで、それは非常に望ましい克服すべき課題であるということだ。

                   

                   しかし、女性への差別や抑圧に気づいた男性や、自分の鎧を脱ごうとしている男性は、それなりにしんどさや生きづらさを感じていることもあるのだ。すべての男性が「女性差別」に無知ではない。だから、「男性の生きづらさ」というボクの発言は、女性の立ち位置を問うことになる。女性だって被害者になることもあれば、加害者にもなることだってあるのだと。

                   

                   今まで発言を控えていた女性たちが、それぞれ一斉に「職場セクハラ」「賃金格差」など現代社会にまだまだ厳然としてある「女性差別」について語ってくれた。この映画はあくまで女性参政権という権利獲得という歴史が中心なのだ。Me Tooの動きなど、まだまだ女性への差別や蔑視、意識されない抑圧など てんこ盛りである。

                   

                   さて、サフラジェットだが、歴史であるから、今から見たら「限界」だって、「誤り」だってあるに違いない。しかし、だからといって、歴史的評価が下がるわけではないだろう。その場その時に精一杯闘うということは、こういうことなのだと思う。意見の中で、ここまで激しい運動をしなければ獲得できなかったということを知ると、身が引き締まるという若い女性がいた。そして、今はこうした意見表明の運動すら「自粛させよ」「弾圧せよ」という権力の動きがあるという指摘をする初老の男性の指摘もあった。

                   

                   サフラジェットでは Deeds not words(言葉でなく行動で!)というダイナミックな動きを奨励するスローガンのようなものがある。

                   

                   当日は話題にしなかったが、第一次世界大戦がはじまると、サフラジェットの運動も戦争に翻弄される。このとき、女性が戦争に貢献したから、その「御礼」として参政権が付与されたという「国家貢献説」という見解も出る。これをどう見るかはいろいろあるだろう。それと、サフラジェットの運動は、当時は「違法行為」だったのだが、だからといってそれがダメなことなのかというとこれまた安易な結論である。人間の尊厳を重視するためには、法そのものを超えていくような動きは歴史的に正しいとボクは思っている。

                   

                   主として男性権力者たちが犯してきた女性蔑視、女性差別という事実を過小評価するための歴史の叙述も、歴史修正主義であり、大きな問題があるのだ。男女のすれ違いは恋愛や夫婦だけでなく、いろいろなところにも噴出するものなのだ。『お・は』105号の『どうして、男と女はすれちがう? ─妻から母へ、夫から父になるとき+現役のあとに 』実はこうした問題意識の中で作られた、生活に密着した男女の本なのである。男女は協働できないのだろうか?男女間の疎外感はいったいどうしたら……。

                   

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                    2019年6月16日(日曜日) 『ち・お』編集会議 これから子育てはどうなるのか?? in新宿

                    • 2019.06.16 Sunday
                    • 21:53

                     今日は、新宿の会議室で、『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』の編集会議。新しく編集人として熊谷晋一郎(東大先端科学技術研究センター准教授)さんを迎え、編集方針の提案があった。

                     

                     かなり綿密で、現代社会の持っている研究や情報についての分析も明快で、情報を求める人たちにどんな本を提供していくのかということが短時間の間に話され、みんな納得であった。『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』誌がどんなふうにこれから展開していくのかと言うことは、『お・は』も同じで小学生以上の子ども達と付き合っている親や教員にきちんと届くようにしたいと思っているので、熊谷さんの提案は本当におもしろかったし、心強かった。

                     

                     子育てのヒントやアドバイスもネットで検索していけば、かなり細かなケースについて「一定の情報」が得られる。しかし、今では、その明確な根拠やエビデンスの確認もなく拡散してしまうことも多い。乳幼児や子どもの成長はほんとうに多様なのだ、そしてその多様さに向き合うためには、土台のしっかりした上にたっての臨機応変さが必要なのだ。石川憲彦、山田真や毛利子来は、臨機応変に子どもと向き合うための考え方の土台を親たちが学んだのだと思う。

                     

                     子育ても教育も、言ってみれば「土台」「枠組み」を構築しながらするものだろうと思う。大きな視野で子どもをみながら、「目先のこと」に向き合うことが子育ての実際だと思うのだよね。これからの子育ては「目先のこと」と「その土台や枠組み」を同時に考え悩みながら営むことが肝要かと思う。

                     

                     怒濤の三日間が終了した。帰りの新幹線では落語を聞きながら居眠り(笑)。

                     

                     この会議場へは丸ノ内線にのって、「新宿三丁目」で下車する。東京駅から20分弱だったが、会議の場所までは、そこから結構な距離を歩く。出口がC7ということで、新宿三丁目の一番はしっこで、ウロウロとしてしまった。表示を見れば問題はないのだけれど、本当に東京は人が多いなあと思う。名古屋は比じゃないなと思う。東京はどこも,名古屋駅の中央コンコース化している。

                     

                     会議では、編集のこと以外に、山田真さんといろいろと話した。とりわけ「教養」ということについて。教養主義という批判が、もうできないくらい、教養が先細りだなあと思う。「教養」なんていうと偉そうな言い方だよね……というのが「昔」だったけど、今や「教養」は死語なのかもしれないと。

                     

                     本を読むというのは、一つの教養を積み上げる方法だった。しかし、今は社会性のある知識や思想(ものの考え方など)という「教養」を、本で積み上げる方法は「はやらない」ようだ。しかし、では、それに代わるのがネット知やウエッブデーターなのだろうか? どうも、そこがボクには分からないのだ。知としては同質だとしても、「身体」はそれにどう向き合っているのだろうか? ここは、面倒で難しい問題なのだが。ま、いずれ この問題はじっくり考えたいなあと思う。ポピュリズムや反知性主義の問題ともつながるんだろうけどね。

                     

                     

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