8月30日(火曜日) 正しい論議の矛盾と感動の問題

  • 2016.08.30 Tuesday
  • 09:49

 

 『お・は』を作っていると、正論だけど実行は難しいとか、言うことは正しいけど実際は違っているとか、現実の描写はそうなんだけど本人はそんなこと思っていないとか……つまりなかなか「しっくりこない」状況や実態があるということを思い知らされる。

 

 先日のラジオの番組で「田舎にはフリースクールなんてないから」とか、あまり不登校の居場所として「フリースクールを連発しないで欲しい」という投書が来た。確かにその通りだなと、しかし、フリースクールで居場所があってよかったなという子どもも現実にいるわけだからそこは、「そうだけどそういわれても」と返すしかない。

 

 落合恵子さんが番組中に「岡崎先生のようないい先生だといいんだけど……」と発言したとき、ちょっと困ったなと思った。講演をすると、よくその後「うちの担任は岡崎先生のような先生じゃないんです」とお叱りを受けたり、逆に、「どうして、岡崎先生のような先生がいないんですか」と問われたりすることがある。しかしなぁ……そう言われても、大きな問題がある。

 

 つまり、問題は二つあって、一つはそんなにボクがいい先生かどうか?という問題がある。むろん、当然だけど、「いい先生」になろうと思って仕事はしているから、そう言ってもらえれば嬉しい。しかし、担任している子どもや親という、実際に付き合っている子どもがそうおもっているかどうかは別なのだ。職場では「いい先生」だと思ってくれている同僚は少ないかもしれない(笑)。だから、浮かれることはできないし、それほど若くない。もう一つは、同時に自分の場所で、よりましにするにはどうするかということに、ボクの話が本当に役立っているのか?ということだ。

 

 「話はよかったけど、私のいる場所ではどうしたらいいんでしょう?」という現実の課題に、当人が向き合えるだけの知恵や勇気や元気を持ってもらえるかどうか?ということ。まあ頑張るのはご自分です!ということに尽きるから。

 

 やはり当事者性というのはかなり重要だ。困るのは、「メダルを取ることで、日本の皆さんに、感動と勇気と元気を与えたい」というオリンピックなどのスポーツアスリートの台詞である。ボクは、あの「感動を与えたい」という勘違いの台詞(と思っているけど)が、申し訳ないが大嫌いだ。本人が感動したり、悔しがったりするのはいっこうにかまわないのだが。

 

 で、なぜ嫌いなのかな?と考える。単純にいえば、それがスポーツだからだ。スポーツの感動や喜びはプレイヤー本人が受け取るものだ。それに、そもそも感動だとか勇気だとか元気なんてのは、声に出して、他者に与えてあげたいとは、思っても言わないものだ。それに観戦しているボクは「楽しみたい」と思っている。ボクが教室の子どもに「さあ、今日の授業でみんなに感動を与えたい」と言って仕事を始めたら……ちょっと気持ち悪いし、違和感いっぱいだ(笑)。

 

 できれば、アスリートは自分のパーフォーマンスにこだわって頑張ってほしい。まあ、体操などはサーカスに発展するんだろうと思う。要するにオリンピックレベルのスポーツは「商業的見せ物」として確立するのがまっとうな発展だ。国家に所属せず、政治に利用などされず、かつ税金など使わずに。各地(世界)を巡業する大相撲がオリンピックの将来の姿だ。

 

 感動というのは色んな種類がある。しかし「政治性のないイノセント(無邪気・無垢)な感動」「単純で分かりやすいこと」はときとして、大事なことを忘れさせてくれる。その大事さが、本当は忘れていけないことであってもだ。オリンピックの政治性は、本当にすさまじい。オリンピックの20日間余り、強く感じた。スポーツの政治利用は「政治的でない」という幻想をまとって巧妙に為される。

 

『お・は』に関わりながら、できるだけ押しつけを排除しながら、単純で分かりやすいことに安易に流れないよう「努力」しよう思う、夏だけど涼しい朝である。

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    8月20日(土) 『ち・お』『お・は』会議で考えたこと「忍耐力」

    • 2016.08.20 Saturday
    • 23:49

     昨日は目黒で『ち・お』『お・は』編集会議だった。山田真さん、石川憲彦さん、富山洋子さん、大谷尚子さん、青野典子さんとジャパマのスタッフ。

     

     『お・は』95号はかなり先だけれど、忍耐力とか根性を取り上げてみようと思い、その提案をする。いつも盛りあがるのだが、編集協力人のみなさんは全員我慢強いとは言えないので、議論百出となる。おもしろいことこの上ない。

     

     そもそも「忍耐力」ってなんだ……ということになり、私がここ二週間足らず、孫二人との格闘を披露して、食から、スマホゲーム、発熱、おたふく風邪、マイコプラズマと色々と問題を投げてみた。みなさんおもしろいけど、結局、一番忍耐力の無いのは私かもしれないというオチまでついた。

     

     教えるとか、育てるっていうのは、子どもたちに忍耐力や我慢する力をつけるというイメージがすごく強くある。それは、本人のためというもので、なんとか、子どもたちに生きる力?を付けて欲しいという善意いっぱいのところから発するんだろうけど、実際は、親の都合だったりする。このことは頭のどこかに置いておいた方がいい。

     

     「泣くのを我慢する」といっても、オリンピックでは選手達がけっこうたくさん泣いているから笑える(不謹慎か?)、わたしは。あれは、我慢しなくていいらしい。スポーツでは、汗(努力)と涙(感情)は『感動構成要素』としては必須なのであるが、もし、ぷよぷよクエストのゲームでクリアできなくて泣いても、だれも感動してくれないだろう。つまり、我慢に我慢を重ねてがんばってきたスポーツなら、泣いてもいいってことか?

     

     このあたりのことはすごくきちんと考えないといけない。感動は操作可能だから。どうも、自分がひねくれているように思えてしまう。かなり真面目に考えているのだけれど。今回のリオ五輪も、ブラジルの社会的な課題とは無関係に開催されているけれど、スポーツって怖いなあと思った。テレビのアングルも狭いなあと。『お・は』会議の帰り道にそう思った。

     

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      7月26日(火曜日) ADHDの子どもだけじゃないぞ! 気持がわからんでいいのか?

      • 2016.07.26 Tuesday
      • 19:01

       

       先日ADHD」の子どもの気持ち というテーマで話したのだけれど、私はいつも、それは「ADHD」の子どもといいつつ、実はどんな子ども、どんな親にも あてはまることだというつもりで話しました。子どもたちの声を聞いてみる・考えてみることの意味は大きいと思う。

       

       学級での混乱や、家族でのずれまくりなど、子どもたちとなかなかうまく関係が結べないというのは、どんな親も教員もみんな経験をしているものだ。

       

       親や教員は、多くの場合、自分の態度や自分の顔つきや考え、志すところがいろいろとあって、それに子どもを合わせようとすることで失敗する。

       

       あるいは、そこまで強引でないとしても、子どもの立場になってとか、その身になってと思う。けれど、実際には毎日の家事育児、あるいは仕事、そして、教員ならカリキュラムを進めたり、行事に取り組んだりして、ある程度の成果をださないと……というのっぴきならない状況の中で、そううまく、「子どもの立場になって」といかないことが多い。

       

       で、結局、私達のようなフツーの大人は、子どもと「折り合いを付ける」ということしか道はない。または、「よりましな関係を結ぶ」ということしかない。

       

       ただ、それでも、子どもたちの気持ちをある程度理解していないと、どうしても焦ることになる。親や教員は自分の予定や予測からはずれると、あるいは、思いもしない反応を受けると「困る」「怒れる」「暴力的になる」ということになる。

       

       うまくいっている学級や家族を見ても、意外と子どもの方が「気を使って、合わせてくれている」という現実があるのではないか。

       

       親や教員たちが、自分の指導の「正しさ」をより強化・精緻化しても、多様化しても、子どもにとっては抑圧にしか感じられないから、余計に反発し、さらに泥沼化する。

       そこで、子ども、とりわけADHDと言われるような子、または、そういう傾向があると言われる子が何をどう考えているかを、考えてみる必要がある。

       

       所詮、私は、当事者ではないので、確定的あるいは絶対的なとらえ方はできないし、するべきではない。人間は百にいれば百通りの個性や資質がある。そして、日々刻々と子どもは態度を変えるのもお得意だ。

      だから、今回は、親や教員が自分の思いと子どもの思いが、どれほどずれているかを確認するだけで十分だということである。

       以下は当事者の声として書き出した。で、どうもADHDの子どもだけでなく、すべての子どもにも言えることのような気がする、いっつもなんだけどね。

       

       思いつくことをメモしてみる。単純に叱っても効果ないしねえ。工夫が要るねえ。

      「なんど言ったらわかるんですか(怒)」と叱ることほど虚しい無駄なセリフはないですよ。一度言ったくらいでわかるなら苦労しないよねえ。

       

      ということで、こんな事が言える。

       

      1.ことの重大さや危険性を考えていないで、衝動的に行動する。

      → だから、「どうしてそんなことやるの」ってしかってもなあ……

      2.叱られても意味が分からない

      → 一応、ごめんなさいとはいうけどなあ……

      3.目立ちたい。注目されたい。

      → 屋根に上って目立つより、いいことでめだってくれよっておもうけどなあ……

      4.集中できない。

      → なんどいっても「わかりました」っていうけどなあ……

      5.自分の欠点がわからないこともある。

      → なんで、オレだけ叱られるわけ?っていうけどなあ……

      6.学業成績が悪い。

      → 別におれだけじゃないじゃん、おれだってやればできるっていうけどなあ……

      8. 指示が具体的で明確にならないと理解できない。

      → 聞いてなかったよ、わけわからんよっていうけどねえ……

      9. 自分が嫌い:→自尊心を持つことができる

      → どうせおれなんかさ、おれだけ叱られるっていうけどねえ……

      10. DHDの怒りを表現するのに、火山を例に挙げてみよう。怒りは火山の溶岩が爆発するところまで上がってくるのと同じように、だんだんこみ上げてくる。

      11.だらだらしている

      → 興味あることは多動だけど、そこでエネルギー使っちゃってるからね……

       

      参考文献的に

      A ベン・ポリス『ぼくは、ADHD』三輪書店2003/5

          “ Only a mother could love him: ADD:Attention Dificit Disorder ”  2001

       

      B 石川真理子『ADHDとして生きる:おりこうでない私の半生』診断と治療社2005/4

       

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        7月23日(土) 宮台さんと公開取材

        • 2016.07.23 Saturday
        • 23:15

         今日は、町田の鶴川で『お・は』の公開取材。相手は宮台真司さん。インタビュアーは尹雄大さん。聴衆は30名限定。私は、二時間一本勝負の司会をする。

         

         今回の会は『男親の<父・祖父・近所のおじさん>社会学』の第一回目。話は、男の子のコミュニケーションの実態から始まる。男子学生のナンパ率の低下が、自律の度合い低下と相関していると言う話。

         

         一時間あまりの宮台さんの話の後、休憩をはさんで、フロアーから色々な質問が出る。詳しくは、これからの『お・は』を読んで欲しい。宮台さんはお子さんが3人で、なかなか大変な子育て生活だという。夫であることと、父であることの分裂の話をふったら、きっちりと受け止めてくれて、おもしろい話をいくつかしてくれた。

         

         宮台さんは『お・は』で何回も書いてもらったり、取材を受けてもらったりしているが、率直に言ってアタマがイイ!なのだ。社会学の研究者としても一流だし、現代社会の動向や現象を彼なりの切り口でいつも明解にしてくれている。最近は、精神分析学をもう一度勉強し直しているらしい。むろん、いろいろと批判もされるが、そんなことは意見や見解を公的な場所であきらかにすれば誰だってある。

         

         名古屋へ帰る途中、新幹線の中で、芹沢俊介『ついていく父親』というちょっと前の本を読んだ。2000年に発刊された本だけれど、当時はさらっと目を通した程度だったので、今回はきちんとまじめ(笑)よむことにした。おもしろかった。芹沢さんらしい、細かな分析と心性のとらえ方がいい。男親=父親は、子どもと妻に対してどんな振る舞い方がいいのだろうか? このあたりは、フェミニズムはなかなか答えてくれない。やはり、男が自分で考えるしかないのだろうと思う。

         

         名古屋駅に着いてから、ジュンク堂に行き、注文していた本を三冊と、新書を三冊購入した。その一冊は『男子問題の時代?』という多賀太著。副題が「錯綜するジェンダーと教育のポリティクス」というたいへんなことになっている。男性の生きづらさについても論じているので、今日の宮台さんの話にもつながるかなと思う。

         

         宮台さんの公開取材の第二回目は、10月8日の土曜日。場所は鶴川の和光大学ポプリホールです。定員30くらいで、あっという間に埋まっちゃうので、『お・は』読んで、早めにどうぞ。1000円です。ただし、定期購読してくださる方は無料です。

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          ほめるということ ううんほめたいけどさ……ムリ?

          • 2016.06.25 Saturday
          • 14:55

          ほめるということ

          アーレの樹の第三火曜日2016/05のお話会でのことに加筆修正したもの)

           「ほめて育てる」というのは、なかなか難しい。だって、欠点はよく分かるから言いやすいが、いいところの発見は庶民的(笑)「教育・子育て」になじまない(→これって日常的な生活感覚としてはある意味で正しいというか、多くの人の実感だと思う)。

           あらたまって言うと、子育ては「一人前にすること」と「自分の命を安全に保つこと」を目当てとしていると私は考えている。だから、世間の荒波やアクシデントの危ないことや不利なことに、対応、順応、乗り越えをして、同時に世間の危険を無くしていくことが主たる課題になっている。

           ただそういうものの、たいした危険や問題でもないのに、今時は「自己肯定感」が少ないとか、調査などで、日本の青少年は、夢を持てないのは自分に自信がないからだ……とかなんとか言って、これまた危機感を煽っている。

           ひょっとしたら、この閉塞した日本社会で、夢を持てないのは、夢ばかっり見ていたらとんでもない目に会うぞ!と若い頃からすり込まれているのかも知れない。だったら、それは大人の問題でしょうということになる。もっと、夢のある社会にしてよ!という子どもの声が聞こえる?

           

          1 ほめる子育てのポイントはいろいろあるけれど

          ゞ饌療にほめなさい △垢阿砲修両譴任曚瓩覆気ぁ´B昭圓箸らべないでほめなさい

          ぢ梢佑鮖箸辰董△△襪い狼甸囘にほめなさい(先生が頑張っていたと言っていたよ……)

           などというのが一般的な子育てハウツーには書かれている。

           まちがってはいないし、まあ よく分かりますよね。

           

          2 結果をほめるのではなく、努力したことをほめることもしたい

           これは、私が以前から言っているのですが、私だけでなく、いろんな心理学者や教育子育て関係者がよくいいます。つまり、結果をほめてばかりいると、結果の出なさそうなことにチャレンジしなくなったり、最初から「やる気なし」の態度を取ったりするようになるのです。

           たとえば、できそうな課題にも、負けたらいやだとか、失敗したら嫌になるということで、チャレンジしなくなってしまうのです。結局、「自分なりに頑張ったよな」という満足感がでないということです。まあだけど、頑張ったこと褒めてもらってもいやなことはたくさんある。例えば、運動会の短距離走。「君はビリだったけど、一生懸命走って立派だった」って言われても嫌だ。(短距離走自体は自由選択にしたらどうだろうか)

           

          3 「ほめることは、相手を見下していることだ」という視点

           最近注目されているらしいアドラーは、これは「ほめる—ほめられる」という関係は、縦の関係(主従関係)になるという指摘をしています。たしかに、親や先生にほめられるために頑張っているということがあります。

           ほめるなと言うことではないと思いますが、やはり注意するべき所です。ときどきは、誰のためにほめているのか? 子どもをほめているが、それは親や教員としての自分が満足するためなのか?と問い返すことは必要ですね。学校では子どもがほめられていると担任はうれしいですが、その裏返しで子どもが叱られると担任は自分を反省するのではなく、子どもを責めてしまうことがよくあります。親も同じかも知れませんね。

           

          4 オカザキ的提言「本当にほめるためには、自分の価値観ものさしを点検せよ」

           自分の価値観だけでほめていれば、アドラーが指摘するような主従的関係を肯定してしまうし、それに、無理にほめていると、子どもはその「嘘」「あざとさ」を感じてしまいます。つまり、子どもは褒められて「嘘を学ぶ」のですよね。

           親や先生は本当に私のことをほめてくれているのだろうか?と疑うようになります。ほめる側が、本当に「すごいな」とか「りっぱだな」「よくやったね」と思っているかということです。

           わずかな進歩を価値あることと思える親とか先生になっていないと、また、それを本当に感じられないと、ほめても嘘だと思うのです。

           これはとても難しいことですが、ほめる側の価値観やものさしが、子どもをほめているときに、必ず如実に出てくると思うわけです。

           あなたは今、子どもをほめているけれど、ほんとうに「ほめるに値することだ」と思っていますか?ということです。

           「ちょっとくらい勉強したからって成績なんか上がらないわよ」と思っている人が、少しでも頑張った子どもに「よく頑張ったわね」と言っても、それは出任せで、嘘だから、ダメだって事です。幼い子ならまだしも、成長していくに従って子どもは、それを察知します。

           逆に、本当にほめられれば、厳しい状況に立たされたときでも、あのとき親や先生はほめてくれたと自己肯定感ややる気をだしてくれると思うのですが……、いかがでしょうか。

           

           *私は、ときどき「自己肯定感」とか「自信を付ける」「受容する」というような言葉がすんなりと、肯定的に受け入れられないことがあります。一度、自分なりに考えて咀嚼してみてからかなと、思うのです。ダメなところに希望を見つけ、「よい」と言われることに闇を探すような……。以上。

           要するにですね。ほめるのも叱るのも面倒くさいのです。成長していきながら、ほめられなくても、いいじゃんと思えるといいなあと思います。そんなことなしで、淡々とやることやってりゃいいんじゃないかと。「なかなかいいじゃん」「おめえ、だめだな」と、たまに「つぶやく」くらいで暮らしたいです。

           

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            5月5日木曜日  『お・は』会議 in 新宿 恋愛と発達障害

            • 2016.05.05 Thursday
            • 21:47


             
            今日は子どもの日だけど、いや、子どもの日だから『お・は』編集会議IN新宿。
            『ち・お』の編集会議と合体で三時間。
             
             連休中だから、名古屋駅も東京駅もはんぱない混み具合。指定席を取って置いてよかったです。でも、実際に乗車してみると、行きも帰りも満席ではあるけれど、それほどメチャクチャ混んではいない。デッキには二〜三人立っているくらい。行きの新幹線では富士山が美しく、帰りの新幹線は「深川めし」が美しかった。
             
             新宿は相変わらず新宿で、久々の上京って感じで、新宿で下車して区役所付近の会議室。JR新宿が一番近いとは思ったが、丸の内線とかが近ければそっちにしようかと、メールで編集部に確認。若干方向が違ったが、軌道修正して時間に間に合った。
             
             九月発刊『お・は』テーマは、子どもの恋愛について。山田さんや石川さん、大谷さんと桜井さんと富山さん、そして青野さんと勢揃いで論議。正直難しいテーマだなと確認する。昔の恋愛と今の恋愛とは、違いが大きいから、簡単に分析などできない。恋愛にも格差があるよなって話。
             
             『ち・お』は発達障害っていわれちゃったら……みたいな特集。石川さんから提案。親たちの「ふつうハードル」が上がってきたので、すごく心配性になっているような感じだよねって。就学時検診の問題を指摘したり、障害児を支える市民参加の運動が停滞してるというか、なくなったよねと。
             
             でも、なんらかの方策を提案しなければ、どんどん教育という名での差別が進行通常化してしまう。実際、特別支援学級がどんどん増えている感じがする。ところが、そこに入る必要があるとはどうしても思えない子どもが多いと思うし、そのおかげで、子どもの多様性が駆逐され、通常学級がどんどん息苦しくなっているのではないか? と思うのだ。
             
             ちょっとでも落ち着きがないと、自閉症スペクトラムとか発達障害とラベリングされるのではないか。「いえいえ、子どもたちに本当に落ち着きがないんです」という教員もいるだろうが、それはあなたの「落ちついた情況」水準が高すぎるんじゃないですか?と問いたい。
             
             45分の授業で、低学年なら15分くらいが勝負だろうと思う。あとは、面白作業とか、学習的遊びとか、本読んだりとか、練習とかでいいじゃないかと思うのだが。それで何にも困らないと思うのだ。なんとか、子どもたちが飽きない授業をしようじゃないかと思う。その意味では、落ち着きのない子をどうやって学習参加させるかの工夫ってのは、分からない子にどうやってわかってもらえるかと言う工夫と同じくらいの価値があると思うのだが。
             
             支援学級へ集めて教えればいいんだって……ちょっと安易で甘くないですかねと思う。通常学級の教員が支援学級を薦めるってことは「わたし降参です」ってことでしょ。北風でなく太陽方式でとにかく、教室を拠点にしてすべての子どもの「生活の場」にするというのがまず一番大事だろうと思う。むろん、言うは易く行うは難しだよ。でも、そこから撤退したらインクルーシブも統合教育も減ったくれもないだろうと思うのだ。
             
             学校は勉強する所なんだから、勉強以外はいらないと思っているのだったら、塾の方がいいと思う。学校はあくまで生活丸ごとを引き受けながら育てる所なんだからね。勉強がふるわなくてもいいじゃないか……くらいの大まかな気持で子どもと向き合ったら、動きの激しい子達にも、もう少し戦略的おおらかさで向き合えると思うのだが。
             
             褒めて育てる!なんて、言ってる場合じゃないのだ。そんな簡単なら、苦労はしない。褒めたり叱ったりだよ。バランスなんだと思う。だって、私たちの子供時代は、勉強が大事だから学校へ行ったわけじゃないでしょ。友だちがいて、そこに生活があったから行ったんでしょ。

             
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              4月15日(金曜日) 「発達障害」という「枠」はどこまで必要??

              • 2016.04.15 Friday
              • 16:31

                しばらく更新が滞っていたのは、単に時間がなかっただけで、悩んでいたわけではない。『お・は』90号が予想を上回って快調に読まれているようだと編集部から伝えられてとてもうれしい。『お・は』にしろ読まれてなんぼのもので、SNS的なものでない、アナログな媒体はやはり、手にとってもらってはじめて意味がある。もちろん、手に取るだけで全然、読まねえよって人もいるかもしれないが、それは残念としか言いようがない。

               
               「発達障害」というラベルを貼ってもなんも変わらないんだけどね、本人は。周囲が恐ろしく変化するところがこの問題のすごいところなのだろうなと思う。おそらく多くの子どもたちは、「ボクのどこが発達障害なんだろうか?」とか思っているかもしれないし、「ボクが先生に叱られるのは、別にボクが悪いんじゃなくて、病気のせいなんだ」と思うかもしれない……ほんとかな。このあたりは、本人が語ってくれないと分からないのだけれど。
               
               親だって、「熱があるねえ、風邪だねえ」と言うのと同じように、「じっとしていないねえ、発達障害だねえ」と言えるだろうかというと、かなりハードルが高いような気がする。で、実は、そういうふうに言えた方がいいんだろうか?と考えると、ちょっと待てよと思う。心の病、精神の病は身体の病に比べて、なかなかオープンにはいかない。「私、ウツなんです」というのは、かなりハードルが下がってきた。同じように、増えているのなら「発達障害」もハードルは下がるだろうか? これは、それほど簡単ではない……と思う。
               
               なぜだろうか? 色々理由はありそうだが、教育関係の中で、とくに学校がこの発達障害については、排除と差別に荷担してしまっているところにあるからだ。意識的に、あるいは、悪意に満ちて、発達障害と言われる子どもに対して、「手がかかる」=「排除したい」という枠組みをもっていれば、そして、それが態度や仕事ぶりに出れば、それは排除と差別に荷担していると言えるのだ。
               
               ボクは子ども相手の仕事をずっとしてきたが、子どもの世話が、まあ教育指導なんですけどね、それが、すごく面倒くさいなあと思ったことはあるし、「こいつ面倒な奴だな」と思ってしまうことはあったし、いまでもある。だけど、「それは仕事だからねえ、やりますよ、ちゃんと」と思うから、続けられているのだ。自分の子どもだって、面倒くさいことはあるでしょ、普通は。しかし、それだって、自分の子だからねえ、親は自分だからね、やるしかないよな、それに、ボクがやらなかったら誰もやらないし……と思うし、やはり、それはそれで、可愛いから世話をする。面倒なことが、だんだん気にならなくなり、なんとか大きくなるまで頑張るし、大きくなったらなったで、親から離れればさびしいということがある。
               
               つまり、「めんどくさくて、やっかいなこと」が、そもそも子育てや教育なのだと思う。だから、一人ではしんどいから、みんなでやろうよということだ。発達障害ということだって、正直、ボクはなにがなんだか分からない。そりゃ、専門的な本も読んだけれど、「はぁーなるほど」ということにすぎない。リタリンや、コンサータは、まあ覚醒剤的だから、効くけど副作用が強い。むろん「効く」と言って何に効くのか? 効くとは何か?というような事も考えなければならない。ストラテラも覚醒剤的ではないが、結構副作用はあるし、もちろん「効くってなに?」は依然と残る疑問だ。
               
               でも、ボクは、別に、発達障害の子が本当はすばらしい才能があるとか、隠れた天才だというような見方はほとんどしていない。つまり、劣っているところもあれば、劣っていないところもあるだろうし、優秀な所もあるかもしれないし、優秀じゃないところもあるかもしれない……と思っている。だから、今号の『お・は』もそうだけれど、発達障害の事を書くと、どうも「発達障害に限った事じゃないけど」という前ふりが要るようなことになってしまう(笑)
               
               今、放課後等児童ディに少し関わっているが、どうも「支援の必要な子」ではあるが、それほど深刻に考える必要があるのかなと思うようになってきた。むろん、バロのスタッフの熟練の職能技術と強い意志によって支えられているとは思うのだが(これはすごいのだ)。変わるべきは、子どもでなく、世間の普通と思っている大人の私たちであることだけは確かだなと思った。

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                3月21日(月曜日)「おそい•はやい•ひくい•たかい」90号 発達障害を身近に

                • 2016.03.21 Monday
                • 12:54
                 

                 『お・は』90号(20163月発刊)は 特集「暮らす・学ぶ・働く『発達障害』を身近に感じたとき」です。

                 

                 私は「個性とははみ出すことだ」と思って子どもと付き合ってきました。それは、大人や学校の狭い許容範囲にとどまる「良い子」だけが「個性的」と言われることに疑問を持ったからです。でもそれは「問題を持った子」が「矯正すべき子」だったり「教え導いてあげるべき子」だと、多くの人が信じて疑わないからです。しかし実際の所、それは、ひょっとしたら「大人の思い通りに動かない子」という「大人のいらだちを抱えさせられている子」なのでしょう。

                 

                 こうした「問題を持った子」は、実のところ、「問題を私たちに問いかけている子、つきつけている子」と考えるほうがよいような子だと思います。そうすれば、そこからみんなが学ぶことはとても多くありますし、「相手の立場に立って考えよう」とか「思いやり」という、さび付いた言葉も、うんと具体的に捉えることができます。

                 

                 「発達障害」と呼ばれてラベリングされている子どもたちのことですが、つまりは、ある問題をわたしたちにつきつけていると思います。ときとして、発達障害の子どもたちをマニュアル的に理解しようとか、診療的に理解しようとしていないでしょうか。

                 

                 つまり、発達障害という言葉を、その子にラベリングするまえに、一人の当たり前の人間としてまず捉え、そこで「めんどくさいなあ」とか「やっかいだな」、でも一緒にやるかと思えばそれでいいのではないでしょうか。そうすると、その「めんどくささ」が実は、普通と思っている自分自身に原因があったり、社会に原因があったりすることも多いはずです。「まず、汝自身を知れ!」 なのです。

                 

                 今号は今までの発達障害に関する特集(77号など)を、さらに基礎的にかつ発展的にかつ具体的に編んでみました。現代の子ども、若者を捉える視点を出し、「発達障害」という診断・医療の問題点をはっきりさせ、「発達障害」を巡った具体的な心得を、様々な角度から論じ、アドバイスをし、働き自立するための具体例を挙げながら、社会のあり方まで論じるという、一本の筋を通してみました。

                 

                 書き手はフリースクール主宰の山下耕平さん、児童精神神経科医師の石川憲彦さん、特別支援教師の海和(仮名)さん、放課後等児童ディを運営している駒崎さん、親の立場から豊高さん、社会臨床学会の中島さん、村瀬学さんや立岩真也さんとも対談でお話ししてもらっています。

                 

                 発達障害を自閉症スペクトラムと言い換えても、子どもは子どもです。子どもとどう付き合ったらいいのか、親だけでなく、大人たちはどう付き合うのか、そして、社会はどんな社会に変わればいいのか…… 課題を、子どもたちだけに狭く限定せず、また学校や家庭だけに限定せず、社会へも具体的に広げ、提起していくことが大切だと思います。むろん「隗より始めよ」はゆるぎませんけどね。

                 

                 おそらく、それは「障害」を持った、子どもたちだけの問題でなく、「障害」を持たないと思われている子どもたちにとっても重要な問題であり、課題になるはずだと思います。

                 

                 私も巻頭で発達障害の子どもについて書いていますが、次号も「ボクのマニュアル」というテーマで書いてみたいと思います。出たばかりの本号の次の号を言うのもなんですが、続けて91号も読んでくださるとうれしいです。


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                  3月11日(金曜日) 広島の中学校進学と万引きのこと

                  • 2016.03.11 Friday
                  • 22:17
                   

                   ほんとに、なんだかなあと思う。亡くなってしまった中学生に対しては、残念というしかない。親としては、悲しいし、悔しいだけだろうと……。その学校の関係者の教員達は、いったいどうしちゃったんだろうと思うが、「日常の業務」(教員の学校での)も、間違えると、命を奪うようなことにもなるという、危険性に心するしかない。意見をボクに聞かれてもわからないことが多すぎる。

                   今回「万引きした」というのは、彼は現場にもいなかったという、完璧な間違いだったのだが、たとえ万引きがあったとしても、万引きごとき(つまりそれくらいいいじゃないか……ということでなく、指導なり反省で悪いと自覚し、くり返さないようにすればいいということ)で「推薦合格」を取り消すこと自体が問題じゃないのかと思った。

                   しかし、どうも、推薦入学制度に問題があるように思った。つまり、推薦基準を明確にして公開しているんだろうかということだ。多分、ある程度愛知でも公開していると思うけれど、ぼくの知っている限りでは、万引きどうのこうのというより、非行行動が全面に出ている基準って、明文化されたものがあったかなと思う。ちょっと、その辺が疑問。

                   本当に万引きがあると推薦が取れないのだろうか? いや、倫理や道徳の問題でなく、実務的にもそうなんだろうか? それが 推薦の合理的な判断基準だったのだろうか?

                   たとえば、万引き事件が分かると、とりあえず、子どもたちに、まず、確認する。事実としてまったく関係ない「万引き」を疑われたのか、まったくその場にいなかったのか、あるいは、直接はやっていないが、関係したのかとか、その辺はどうなんだろうか。普通は、万引きってそのお店が学校に御注進ということはないと思うし、やらないだろうと思う。まあ、保護者が学校に伝えてくることはあるけど。だから、万引きそれ自体を、学校がどう対応するかは、そうとう面倒で大変なことなんだけどね。その子がやったやらないという以前に原則的な指導方針が出ているんだろうか?

                   とにかく、今回は「冤罪」でしかないのだから、学校がずさんな管理をしていたというのは、それは批判されるべきだ。しかし、一方で、万引きについて学校がどう考えているのかがはっきりと見えてこないのだ。万引き、推薦、生活指導、入試懇談という学校アイテム?がこんがらがっているように思えた。

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                    3月7日(月曜日) 高野優さんと町田で!

                    • 2016.03.07 Monday
                    • 22:06
                     

                     今日は、午後から『お・は』91号の特集「学校では教えない社会の基礎常識

                    バイト・就労をする前に」の対談。マンガエッセイストの高野優さんと町田市の鶴川にある、長岡式酵素玄米を使ったランチを出してくれるお店で実施。

                     

                     スタッフと一緒に高野さんとランチをいただく。なかなかの味だった。肉魚はなしで、野菜中心の献立ランチだった。コーンスープもおいしかった。

                     

                     対談は、若い人たちの就職やバイトなど、課題や問題を二人で話し合う。自分自身や子どもたちの進学、就職、その後の話なども話題になる。ボクの子どもたちはすでにそれぞれの道を選択して、それなりに苦労しているし、高野さんのお子さん達も、そろそろ就活の時期になりつつある。ほんと、子どもがいくつになって、心配はつきない。

                     

                     いつもだと、時間を気にしながらまとめながら対談するのだが、今日は、相手が高野さんということで、リラックスしてしまい、帰りの電車がギリギリだった()。五月発刊が楽しみだ。

                     

                     『現代思想』4月号の原稿もとりあえず書いた。結局五〇枚弱。今回は参考文献にASニールの『人間育成の基礎』という本を取り上げた。この本は、サマーヒル自由教育の主宰者ニールの本。ニール全集は古いものと新しいものの両方もっているが、霜田静志先生の翻訳である。本文に引用しているわけではないが、自分の学校での仕事の仕方の原点になっているし、若いころの座右の書であった。今だとちょっと古くさい部分もあるし、フロイトを評価しすぎている所も若干ある。だが、教育における自由ということを考えるときに読む。古くない()

                     

                     明日は、アーレの樹のヌップ部門、つまりフリープログラムスクールの生活と学習の構造を示した案を提出する。四月から、本格的にフリースクールとして運営するのだが、不登校や学校嫌いの子どもたちに、どうやって向き合うかのガイドラインである。

                     

                     フリースクールは全国にいろいろあって、その形態は様々だ。干渉を避けて場所だけを提供するところから、受験指導まできっちりとやるところと、会費や月謝もいろいろ。本当にフリーである。そこがいい。不登校の子どもたちが、安心していられる場所でありながら、学習するチャンスも失わないことをどう考えるか? なかなか難しいが、試行錯誤しかない。まだ定員に満たないので、資金面などの運営も考えないといけない。

                     

                     学校とフリースクールの両方を、四月から行ったり来たりする自分が、どんな風になるのかと思うが……。



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