4月10日(水)『お・は』イベント、島村きよみ政策集会  

  • 2019.04.10 Wednesday
  • 10:51

 

 土曜日の6日は町田市で『お・は』104号「発達障害本の記念イベント」で脳科学者の山口和彦さんといっしょにお話をする。

 

 今回本には書かなかったことをまず話す。といっても特別なことではない。いろいろな新しい教育システム・教育内容などが、結局「同じ」をめざして「一緒」を駆逐するという筋道を立てているような気がするということだ。

 

 特別支援教育の支援がクローズアップされることによって「よりよいサービスがありますよ」という「あまい汁」で分離と隔離の教育へ誘引していくことになり、結果的に「統合」「交流」「通級」も減って、インクルーシブ教育にはなっていかないということなのだ。名古屋でもそうだけど、東京でも特別支援学級が減って、特別支援学校が増えるというようなことになっている(なっていくんじゃないか)と思う。かなり重度の障害を持っている子どもたちと、いままで地道に、まじめに研究して、付き合ってきた教師たちにも最近とまどいがある。

 

 フロアーから「教室の前面に気の散るものを置かない」というスキルが親の側からも出てくるようになったが、腑に落ちないとの話がある。つまり、特別支援についてのスキルはあくまで子どもを見ながらの話なのだが、支援の教科書に書いてあるようなことが、一般化どころか普遍化されているのだ。気が散るのが子どもなのではないか。雪が降ってくる窓に「あ、雪だ」と押し寄せる子どもたちは「変なの?」と言いたい。雪が降ってきても、気が散るから窓には暗幕をしましょうなんて言わないだろ。……しかも「合理的配慮」などと言われて。しかし、そういうマニュアル的なことは「合理的配慮」であるはずもないと参加者からの意見がある。ボクも本当にその通りだと思う。「合理的配慮」を意味も分からずに安易に使うな!とボクは思う。

 

 この「気の散るものを置かない、掲示しない」というが、ボクはまじめに、本当にまじめに「気が散っても良いじゃないか」と断然思う。最近、教室に季節の花を置く先生が激減している。自分が担任をしていたころ、子どもが持ってきてくれたり、自分でチューリップを買ったりしてね。今なら春だから花瓶に、菜の花を入れたり、蝶などの虫の絵を貼ったりしていた。秋ならすすきだ。つまり、季節感のある教室はいいじゃないかと。

 

 でも「子どもにとって教育的」なんぞという大上段に構えたということではない。子どもが花瓶の花を見て癒される(笑)なんてことはないだろう、多分。でも、生活の空間である教室に季節感があるのは「常識」なんだと、ボクでさえ思っていたからなあ。花より団子なんだけど、花がなかったら「団子」だけって、なんだか寂しいじゃないかということだ。

 

 山口和彦さんは、ほんとにきちんとした専門家だった。『お・は』に書いてもらってよかった。脳の仕組みについて「わかっていること」「わかっていないこと」「今のところで予想できること」「可能性を否定できないこと」「まちがっていること」などなどをきちんと分けて話をしてくださった。そして、「人間はいろいろです」ということをなんだか愛!(笑)をもって話してもらった。ほんといい話だった。

 

 微妙な話を分かったような断定口調で話すメディア専門家の話を聞きたくなくなる。そして、やはり人間は不思議なんだなあと思う。分からない事はいっぱいあるんだと。そして、ボクは思うのだ、『子どもってワケわからん!』でいいのだと。

 

 翌日は午後から地元の議員だった島村きよみの政策検討イベントに参加した。一時間ちょっと別室で10人くらいの市民(知人多し)と学校の話をした。その後、200人以上の参加者と一緒に島村さんの政策を聞き、教育政策について15分くらいコメントさせてもらった。とにかく、カネもない、カネを使おうともしない文教政策の中では、県や国から「忖度」たよりのコネを使って、地元にお金を恵んでもらうような政策、地元に企業誘致して税収を上げよう……などという、終焉を迎えて幾久しい高度経済成長型の発想は辞めなければならない。やはり、熟議のために現場の校長でなく教育委員会でもなく「一般教員」「保護者」そして「子ども」に意見を出してもらうという現場の声が必要なのだ。

 

 彼女が行政のリーダーになってくれれば、市民も動き甲斐がある。何かを頼んでおんぶにだっこでやってもらうのでなく、市民が何かをやるために応援をしてくれるリーダーがいいのだ。カリスマなどいらない。必要なのは伴走してくれる、そして応援してくれる行政組織なのだ。「田中角栄」を期待する時代はとうにすぎた。「昔はよかった」などと言ってる時代はすでに終わり、この五里霧中の中で「他者を尊重し、寛容につつましく生きる幸せ」を創ることだと思うのだ。「強いリーダー」に憧れてはいけないのだ。

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    4月5日(金曜日)子どもってワケわからん!……方がいいよなと思う。

    • 2019.04.05 Friday
    • 09:47

     

    中日新聞(東京新聞)に隔週金曜日に掲載している『子どもってワケわからん!』というコラムをまとめた本が批評社から出版された。2013年の3月の退職間際に書くことになってもう6年目になろうとしている。最初から昨年12月までのものをまとめ、分類して編集した。

     

    書き続けていると、保護者の立場、教員の立場といろいろとあって、真逆の回答になることがある(笑)。でも子どもにとってみると親も教員も自分たちを押さえつけてくるという同じ「抑圧」なんだけど、親や教員から見ると「違う方向」になることもある。

     

    読んでくれている人からは「おもしろいよ」という声がかかるけれど、やはり「むかついている人」もいると思う。ただ、むかついている人は反論や批判をあえて伝えるエネルギーなんかもったいないと思うのだろうから、なかなかこちらには伝わってこない。だからちゃんと言葉でメールや手紙で批判をしてくれる人には、いろいろな意味で感謝なのだ。

     

    批判されても納得できればごめんなさいなのだけれど、一番ためになるのは、自分の所属や名前を記して、批判してくれる読者だ。相手の論理が間違っていると考えれば反論しなきゃいけないので色々と違った側面から考えることができることだ。それが一番良い。ただ、多くは誤読や曲解なので、まあ、ボクの書き方の問題なのかもしれないと反省はしている。

     

    ボクに怒れる人の批判は、結構「教育や子育ての専門家」という人から「いい加減なこと言ってんじゃねえよ」的な声が届くときがある。しかし。ボクはそういう専門家の言説それ自体を疑っているので、反論したくなる。

     

    でも、最近、つまり『お・は』105号の特集で「理屈で論破しても解決にならない」という夫婦のことを書いたばかりで、色々考えると、反論してくる読者に反論でかえすのはともかくも、論破してもあまり益がないことも多いのかもしれないと思う。だって、論破して、「私が間違っていました」なんて言う人はほとんどいない。まれにいるけど、ずいぶん我慢して言ってくれているんだろうと思うと、これまた気が滅入る。

     

    要するに、論破して「まいりました」「私が間違っていました」と言わせることは相手の自尊心が傷つくわけで、相手にそれに耐えられるだけの力があるかどうかが分からないから……ね。ボクはすぐに謝ってしまうけど(笑)。それに、相手を論破しても別に気分がよくなるタイプではないので、「ふーん、そうなのかぁ」と思ってくれるだけでいい。

     

    職場だったら、管理職や「横暴な同僚」に対し、まず理論的に徹底抗戦しないとダメなんだとボクは思う。正しい意味の忖度も時と場合によっては必要だと思うが、たんなる迎合はしないようにしてきた。

     

    SNSでは原則的にやりとりしないようにしているが、SNSは実務的なことだけで十分だと思う。このSNSで意見の対立があっても、そのツールで論争はしたくない。とりわけ感情的になると最低最悪だと思うのだ。ボクもちょっとだけ経験したことがあるが、自分の品位(あんまりないけどね)を守るのにけっこう疲れる(笑)。金輪際SNSツールでの論争はしないつもりだ。

     

    「気軽に意見の交流ができていい」などというのは、意見や指向が一致しているようなSNS仲間だからだ。そんな範囲内だから、気楽とか気軽というのは「どーでもいい内容も含んでいる」のは当然。FBやツイッターで「いいね」がたくさんあったら受け入れられていると真剣に思っているとしたら、それはノー天気ではないか。「いいね」もお金で買える時代だからすごい。まあ「つぶやき」なんだから好きにすればいい。「つぶやき」に社会性が出ていることについてはその限界とか限定を考えないとダメなんじゃないかと。

     

    閑話休題。「子どもってワケわからん!」の本は、子どもの多面的でとらえどころのない生き方をまず肯定して、その面倒さにボクたちは付き合っていくしかないというのがテーマなのだ。だから、「子どもが静かに授業をしている」なんていうのを単純に喜んでいるのは、子どもの持っているエネルギー量の低下以外ではない。「静か」ってのは沈思黙考もあれば、虚無の世界でもある。それって、かなり危険なことでもあると思う。

     

    *近々のイベント

    1)『お・は』1904号『『発達障害 学校で困った子?』刊行記念トークイベント開催!

    日時:4月6日(土)午後1時半開場 14:00〜16:00(予定)
    会場:和光大学ポプリホール鶴川3階
    (東京都町田市能ヶ谷1の2の1、小田急線鶴川駅下車徒歩3分)
    参加費:1500円 会場定員:20名

     

    2)まちづくり公開トーク(主催:スマイル日進)

    日時:4月7日(日)日進市民会館 無料

    13時半〜14時半 1階研修室にて ボクと教育・学校のお話と懇談

    15時から30分 小ホールにて島村きよみさんの政策発表

    16時から ボクともう二人で 政策への意見感想 16時半終了

     

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      2月25日(月) 『お・は』104号『発達障害 学校で困った子?』発刊です!

      • 2019.02.25 Monday
      • 13:36

      みなさん お元気ですか? 少しずつ「春」の気配がします。木々が芽を吹き、花が咲きはじめます。いずれにしても、春はいいなあということです。今日(2/25)は、日の全く当たらない理科室も室温15度でした。

       

      さて、本号は、子どもの発達障害を特集しました。私自身が最近 行った講演記録に加筆訂正したものと、多くの親や教員からの質問で、頻度の多いものを具合的な場面を予想し、項目立てして精一杯答えてみたものです。

       

      また、精神科医の石川憲彦さんに「発達障害の子どもたちへの投薬」について論じていただきました。さらに、脳神経科学者の山口和彦さんには「発達障害と脳」について、最新の情報と先生の見解を述べていただきました。

       

      いつも「発達障害」や「障害」を持つ子どもたちを考えるときの、ボクの基本は、すべての子どもは「困った子」であるということです。ですから問題は、だれが困っているのか? 子ども自身なのか、周囲の大人なのか? そして、「困ってはいけないのか?」ということと……


      同時に、いま はやり?の「支援」を根本的に考えていきたいということです。

      私は、子どもを支援するということは「いいこと」なのか?……ともう一度考え、吟味しながら、支援していきたいと思うのです。

       

      教師や大人が、「自分たちの枠組み」に子どもを入れ込むための支援だとしたら、それはそうとう子どもにとって危険なことだと思うのです。その枠組みが「子どものため」であるからといって、支援の吟味を免責されることはないと思うのです。

       

      「障害の有無」を無視することはできませんが、子どもたちとできるだけ柔軟に付き合いながら、楽しく仕事をしたいと思います。そんなボクの試行錯誤を特集の中に埋め込みました。いろいろとご批判もあるでしょう。「専門性を重視しつつも、専門性から自由になるべきだ」と思うのです。。

       

      ボクは子どもは「ケアし配慮される存在」であるとともに、それを「受け入れたり、拒否したりしながら自立し、自律的な協働性を求める存在」ではないかと思うのです。できれば、子どもたちをよく見て、対話しながら「学校化社会」や「効率主義」から距離をおき、自分自身も自由に子どもたちと付き合っていきたいと思うのです。

       

      『お・は』104号刊行記念トークイベント
      「発達障害学校で困った子?」

      日時:  2019年4月6日(土)13:30開場
      14:00〜16:00
      会場:  和光大学ポプリホール鶴川3階 リハーサル室
      (東京都町田市能ヶ谷1-2-1、小田急線鶴川駅下車徒歩3分)
      参加費: 1500円
      会場定員: 20名

      https://japama.jp/event/20190405/

       

      是非、ご一読ください。

       

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        2月3日(日曜日) 那須塩原で2時間一本勝負

        • 2019.02.04 Monday
        • 06:39

         那須塩原市で放課後児童の居場所を運営するNPOに招かれて話をしに行った。行政の合併等でいろいろ苦労した上でつながっているので、手作り感と意気込みを感じる。

         

         那須塩原駅は那須の御用邸の駅であることを迎えに来てくれたスタッフに教えられ、なるほどと。雪がまだ少ないので、スキー場は大変のようだ。西側には山脈がつながり、景色もいい。ただ、皇室がやってくるときは、一斉に掃除がはじまるそうだ。「○福の科○」行きのバス停が駅前にあったのでおどろいた。

         

         駅の近くのレストランで、昼食をとりながら、PCメールを確認すると、あちゃぁ「連載の締め切りが過ぎてますよぉぉぉ」と連絡がある。月一の連載だけど、遅れたことはほとんどないのに、ううむ、気が緩んだなあ。三日くらい前に少し書きかけて、そのままにして、忘れ去っていた。「今月はちょっと早めになります」って念を押されていたのに。反省。早速、ハンバーグ定食を食べて、続きを書き、謝罪しながら送信する。

         

         五百人くらいのホールで半分くらい入っている。あまりギシギシよりもゆったりめでいい。女性がほとんどで、放課後児童のための施設(学童保育所等)の指導員のみなさんと保護者が多いようだった。二時間をレジュメにしたがってどんどん話す。

         

        今回はとくに、同調圧力と個性化のからみを具体的に話す。とくに、「みんなちがって、みんないい」とよく言うが、これが、個性化やコミュニケーションに行き詰まるきっかけになるという話。「自由な個性は素晴らしい」というが、個性を発揮することで、共同的な集団から逸脱することがある場合、その個性を認知してもらうのは難しい。

         

        逸脱するというのは「自己責任」に帰するので、「ムリ〜」ということにもなる。だから、同調圧力はなかなかなくならないのである。「同調圧力に対抗するのが自己責任」という帰結になるとすると、その道はけっこういばらの道で、地獄の選択でもある。現に、子どもどころか、大人社会がそうである。子どもどころではないのである。

         

        自立や自律など、主体性の確立というのは、闘争や論議、失敗、挫折というところから育てられるとするなら、それはかなり厳しい「試練」となる。近代社会の理念でうたわれた主体的自己、自由と論議の民主主義は「厳しい」のだなあと思う。あんまり単純にはいえないなあとつくづく思う。

         

        「子どもを自律させる」とかいうけど、けっこう大変なことなのだ。とりあえずは、小さい頃の安定して安心できる気持ちをしっかり味わうことが何より子どもにとって大事なのだろうと思う。そういう安心があればこそ、チャレンジとか自己主張とか、やってみる!、おもしろそう!という気持ちから動き出し、失敗しながらも、充実感が味わえるんだろうと。(心理学用語的には愛着形成の重要さ、ということになるんだろうけど。)

         

        子どもは抱っこしたり、「いい子いい子」してあげればいいんだ。ときには、親でなくてもいいし、おじさんでもお兄ちゃんやお姉ちゃんでもね。学童のスタッフでもいい。いい顔になって、ちょっと一人前風に動き出せば、少しくらいもめても、大丈夫、自律に向けての準備は成功したんだと思う。

         

        最後に質問が出て「どうして勉強するんですか?」と子どもに聞かれたらどう答えるんでしょうか?と。これは、難問で、いろいろな人が答えているが、はっきり言って子どもに納得させるのは難しい。とくに、勉強嫌いな子どもには難しい。ボクは「難しすぎて答えられません」と言うことにしている。つまり、ボクの仕事、教員は学校を良い思い出や楽しい出来事、わくわくすること、どきどきすること、好奇心を満たしてくれること、そういうことをするのが仕事だと思うからだ

         

        むろん、いつもいつも、毎日毎時間、楽しくできるなんてことはないし、たまには厳しい授業もスパイス(笑)としては必要だろうと思う。基本は子どもが楽しく学校で暮らすことが第一だ。そして、子どもが楽しいのは、第一に友だちと戯れることなのだ。次が給食かもしれない。授業や学校のワークはその次くらいだ。順位は一番ではない。謙虚になるよな、やっぱり。……二時間一本勝負の講演が終わり、やや喉が渇き退席した。

         

        ステージに飾ってあったお花を「持って帰ってくださいね」と言われた。頭の上で「持って帰りなさい」と連れ合いの声がしたので「喜んでー、ありがとうございました。」といただいて帰ることにした。運良く、新幹線は隣が空席だった。お世話くださったみなさん、ありがとうございました。

         

        帰りは「なすの」→「のぞみ」と乗り継ぎ9時に名古屋である。とにかくお腹がすいたので、幕の内弁当1350円を購入。購入したあとで「しまった」と思った。これは、あまりおいしくないのだった、ま、ボクにはだけど。ご飯が固いし、味が適当でうすい。悔やみながら、よくかんで、感謝して食した。明日も仕事だ! 

         

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          1月16日(水曜日)『きみ、ひとを育む教師ならば』というボクの書いた本

          • 2019.01.16 Wednesday
          • 21:09

          『きみ、ひとを育む教師ならば』<筆者からのメッセージ> ということで……

           

          自分の仕事のことを偉そうに本に書くのは100年早いとずっと自分に言い聞かせてきた。

           

          『ガラスの玉ねぎ』(2004年刊)という学級通信を本にしたときは、子どもたちと親たちの後押しもあったが、あくまで学級通信として書き、配布したものをそのまま出すということだったので気は楽だった。だが、本書はあきらかに教員向けの本である。

           

          むろん、親たちが読んでくれてもいっこうにかまわないのだが(実際に親からの評判もいい)、教育関係者を対象とした本である。

           

          教員をやりながら、ボクは学校での「技術」を安易に伝えたり受け取ったりするものではない!という意識が昔からあった。

           

          でも、一切の技術を無視して「人として付き合えばいい」とは言い放てなかった。「子どもたちと付き合う上でこうやったらうまくいくということもある」とか、「こうやったらいけないんだよ!」ということもだんだん分かってきた。

           

          それを同僚たちに伝えたいと思って書くことにした。教員からの相談はいまだに多い。授業や指導の相談から、同僚との関係の相談、勤務時間からパワハラの相談……。その相談の中で、ある程度はっきりしていることは技術として「ボクはこうやった」「ボクならこうする」と伝えることにしている。

           

          しかし、マニュアルは参考にはなるが、結局はそれを検討しながら自分で創るものであり、決して、右から左へといくものではない。本書で例を挙げれば、私には「学級は楽しい教室であるべきだ」という原則がある。

           

          それは、実際にどうやったら楽しくなるかという工夫が必要になるし、その工夫をするためには材料やネタ、方法を学び試行錯誤する必要がある。

           

          そうすれば、たとえ失敗しても、その先生の原則を必ず子どもは理解し、先生を信頼し始める。もちろん授業だけで楽しいを追求していてはダメだということもある。

           

          生活全体に楽しさが必要なんだ。おもしろい企画にもチャレンジするし、あるときは校則や常識への挑戦であったりする。

           

          楽しさを追求するということは必ず危険が伴い、勇気も必要になる。また、「知は力なり」でもある。努力無しで楽しくはならない。

           

          しかし、子どもたちが楽しくなる学級を創ろうと努力することは苦労ではなくなるのだ。苦役にはならない……というのがボクのやり方だった。苦役になったとたんに、きっと楽しい学級にはならないだろうなと思う。

           

          さらに子どもの立場にたって授業をするときには、「分からない子どもにもうまく教えられるようにしたい」ということよりも、「子どもの分からないときの気持ちを想像することの方が重要だ」と思うような、そんな気遣いが教室には必要なのだ。

           

          この本はボクの長い経験から、子どもたちによって深く思い知らされた「技術的エッセンス」が現実的かつ具体的に書かれているのである。

           

          きみ、ひとを育む教師ならば

          <以下、本文より一部抜粋>

          新学期はシンプル・イズ・ベスト!
          自分の担当学年と学級が発表されると、ボクはまず「教室」を見に行きます。
          これから始まる新学期、子どもたちと過ごすその教室は何階なのか、そして、階段やトイレは近いのか、奥まった教室で暗いのか……。
          救命用具などで教室が狭くなってはいないか?作品などを掲示するスペースはどの程度か?
          運動場から近い教室なら、子どもたちはギリギリまで休み時間を使って授業に遅れるだろうから覚悟しなくてはと思うし、四階なら、休み時間にも外へ遊びに行かないかもしれないからどうしようか?などと考えたりします。
          いまは、教員の新学期は目が回る忙しさです。
          「四月は教室の掲示物がなかなかできない。四月の授業参観には、なにを掲示したらいいかしら?」と悩む声も聞きます。
          でも、ボクは、新学期はシンプル・イズ・ベストを心がけます。
          あえてあわてて壁や黒板に掲示をしません。
          時間割や活動表といった掲示物は、できるだけ子どもたちと少しずつ作っていくのがいと思うからです。
          最近は、学校のコンピューターで、「学級環境CD-ROM」やPCソフトのイラストなどを使って簡単に掲示物を作ることもできます。
          簡単に作れるのはありがたい。
          でも、自分のクラスは、時間がかかってもみんなで作っていこうという気持ちがあれば、それも大事にするべきです。
          誰もいない始業式前の教室へ入って、ボクはまず、天井にぶら下がっている蛍光灯をきれいにします。
          せめて、ほこりくらいはぬぐっておくのです。
          新学期早々教室にほこりがふってくるのはつらいものがありますから。
          それから、出入り口の戸の窓ガラス拭きにうつります。
          濡らした新聞紙で丁寧に拭くと、すばらしくきれいになります。
          これは「出入り口のガラスだけでもきれいにしておくと、教室がすっきり見えますよ」と同僚から教えてもらったことのひとつです。
          (18ページから19ページ)

          しんどいからこそウソをつく
          多くの子どもたちは、親がいなければ自分は生きられないと思っています。
          親があっての自分ですから、教員が親を「否定」しても、それがたとえ「正しい否定」でも、すっきりと聞くことはできません。
          逆に、「私はどうしたらいいのだろう?」と思い、「こんなにしんどくつらいなら、朝食を食べてきたとウソをいおう」と思うのです。
          あまりに見えすいていれば「今朝は食べてきていない、けど、昨日は食べた」くらいの話にするのです。
          「生活の基本」とはいえ、こういう親や家庭の事情にふみこむ朝食調べなど、教員が指導する「正しいこと」は、彼らにとってけっこうつらいことなのです。
          そのことをボクたち教員は自覚しておく必要があります。
          以前、ボクはこういう子どもたちに、牛乳を残しておいて飲ませたり、給食の残りをとっておいて食べさせたりしていたことがあります。
          しかし、これは学校的には反則ですから、許可が出ません。
          やるなら覚悟がいります。
          「先生がやれないなら、私がやってやる」とおにぎりを作ってくれた業務士さんもいました。
          教員でないので、単純に同情して、「かわいそうでたまらないので、作ります」と断行してしまうのです。
          こういう子どもたちとの話は、もちろんケース・バイ・ケースです。
          ボクはときには「お母さんの機嫌のいいときに、『学校で、給食までの時間、おなかすくんだよな』っていってみたら。お母さんもがんばって仕事して、疲れているからたいへんなんだろうけどさ、いいお母さんだよな」と、できるだけさりげなく伝えることもあります。
          子どもとの「つきあいの原則」のなかで、親とか家庭の都合を無視しないというのは、いいかえると、子どもの親を否定しないということです。
          それは、親を否定されても、子どもはその後の長い時間を、切っても切れない親子の関係のなかで生き続けなければなりません。
          そのとき、子どもたちがどう生きるかを、ボクたちが示しえないからです。
          (55ページから56ページ)
          アイデアは慎ましく提案
          たとえば、子育てのトラブルが「愛情不足」だとしても、なぜ「愛情不足」になったのか?を考えなくては解決には至りませんし、それは非常に難しい問題です。
          そもそも「愛情不足」とはなんでしょうか?
          わかりやすいキメ言葉は、中身がいまひとつ曖昧なのです。
          こういう、キメ言葉のもつ、わかったつもりにさせるマジックに、ボクら教員は騙されてはいけません。
          困っている親の側で、教員は立ちつくすだけです。
          いや、立っていることしかできません。
          話を聞き、ときどきは稚拙でも「ダメもとで、こうしてみたら」といってみる。
          それも、謙虚にいうことです。
          多少、親から冷たいと思われても、ボクたち教員は、子育ての達人ではありません。
          教員自身だって、自分の子育てに自信をもっているわけではないのです。
          そのことも、率直にいうべきでしょう。
          まして、子育て経験のない教員は、言葉に慎重にならざるをえません。
          しかし、子育てをしていないからといって、遠慮する必要はありません。
          もっとも、遠慮しないということはぶしつけでもいいということとはまったくちがう、ということも覚えておかなければいけませんが。
          子育ては、親が「覚悟」するしかないのだといいました。
          そして、ボクたち教員は、常に謙虚に、高見からでなく、親のたいへんさをできるかぎり理解するように、いっしょに頭を抱えることが必要なのだと思います。
          そして、もし、なにかアイデアがあったら、慎ましく提案することだと思います。
          もたれかかられないように、かつ見放さないように。
          つまり、徹底した、ケース・バイ・ケースとバランス感覚をもった、微妙で難しい立場をとるほかないのです。
          (104ページから105ページ)

          『きみ、ひとを育む教師ならば』岡崎勝 著 2011年刊行

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            2019年1月13日(日曜日) 高齢じゃなくて恒例のおもしろ学校研究会

            • 2019.01.14 Monday
            • 17:09

             

            久しぶりのブログです。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

             

             今日はおもしろ学校職員室の恒例、冬の研究会。様々な観点と興味から「レポート」らしきものを提出するということになっている。半日の研究会である。一人三十分くらいの持ち時間。

             

            最初は_縄基地問題に際する珊瑚移植についての研究。安倍晋三のNHKでの事実誤認発言。NHKの安倍勢力に忖度したずさんなインタビュー番組になってしまっている。報道したNHK担当者というか編集部もかなり問題があるなあと言うこと。

            そして給特法改正について。労働条件の改善署名は無駄ではないし、沈黙していた多くの教員労働者がつながれたことはよかった。だが、十分な効果は期待できないかもしれないということで、それは「現場闘争」がないと、なかなか現場が変わらないだろうなということ。そもそも、時間が来たら仕事をやめると言うことしかないだろうなということ。日教組はどしたの?という意見も出る。(確かに!)

             ちなみにぼくは「給特法はしばらくは変わらない」と思っている。もちろん「よりまし」にしてほしいし、廃棄してほしい。ただ、実態としては、みんながつながり、現場での闘いがないと難しいかなと思う。

             

            次は、自分の工房で発行している充実した通信半年分の紹介。多彩な活動と、木工芸術品。読書案内、映画案内です。とりわけ映画「ボヘミアンラプソディー」は素敵でしたという話。ううむ、いいなあとしか言えない。うらやましい。あちこちで自分の作品が展示されたり、韓国でのワークショップの話などおもしろかった。ものが形でできるということは本当に素敵なことだ。

             

            そして、いろいろなおもちゃ、科学グッズの紹介。とりわけそらとぶミラーボールがおもしろかった。ううむいろいろとあるなあ。こういうおもちゃを発見することって、子どもと向き合っていると、本当に必要なことだと思う。しかし、それを「おもしろいなあ」と思わなければ発見どころか、目にも入らないということになる。子どもと一緒に面白がることが一番なのだなあと再度確認。

             

            憲法、労基法など「穴埋め問題」。学生にやってもらおうと作ったものが提出された。みんなで解くが、けっこう記憶が曖昧なところがあった。しかし、いままで労働法や憲法はいやというほど現場で使ってきたので「よく分かる」のである。これから若い人たちにもきちんと学習してもらって、ブッラクな現場に立ち向かってほしい。雇用契約書のテンプレートを一つひとつ確認する。大事なことだ。

             

            「上野千鶴子」について。著作や思わぬところで会って刺激を受けたという話。今まであまり読んだことはなかったが、読み始めたという話。上野さんはボクも若干の知り合いなので興味深く拝聴。有名な人なのでいろいろと言われているが、ボクにとっては尊敬に値する人である。自分にとってどうなのかということがまず一番重要なのだと思う。それから、「すべてがすばらしい」などという人はいない。いくら波長があったり、意見が一致したりしても、だからなんなのだ!ということにすぎない。いいとこ取りをすればいいし、嫌なところや許せないところがあってもそれはそれで「NO!と言ったり思ったりすれば良いのだ。

             

            今回は若い学生さんが一人参加で「かっぱ」について話をする。乞うご期待。

             

            ボクは「家族意識の変遷と偏見と幻想」というテーマで、「いまどきの家族」についてレポートする。これはかなりめんどくさい話。ただ、一番いいたかったのは、「一家団欒」とか「思いやりのある家族」などということで、ボクたちがイメージしているものは、つい最近までの非常に短い間のイメージでしかなく、普遍的でもなく、かなり非現実的なものではないだろうか?という反省を込めてのレポート。「よりよい家族」「家族の正しいあり方」のような言葉からイメージして子どもの成長や育ちを考えるのは危険ではないかということが言いたかった。家族は「多様化している」がそれは善くも悪くもあるので、問題はリアルな現実を確認しておくことなのだと……。

             

            こうあるべきという「家族のあり方」はどこからすり込まれたのか? 逆にそのイメージが、かえって私たちを生きづらくしていることはないか。あとは、夫婦や結婚、高齢者家族の困難についてのリアルな事例をいくつか紹介し、そこから意見を交換。

             

            この研究会は、まいどまいど、楽しく、厳しく、意味の詰まった、中身の濃い話が多く、充実感がある。

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              12月15日&16日 『一日おもしろ学校ごっこ』『『お・は』20周年記念イベント』

              • 2018.12.17 Monday
              • 14:59

               

               昨日は、第五十六回『一日おもしろ学校ごっこ』だった。たくさんの子どもと親御さんや付き添いの方、それに、大人の単独参加など、いつものように賑やかなみんなと一緒に一日の授業や困談会を実施しました。

               

               授業の方もいままでお手伝いだけしてもらっていたスタッフが授業デビューでした。とても評判がよく、工夫された授業でいいなあと思いました。感想もよかったし、強力なメンバーになります。それに学生のボランティアも元気で子どもたちにも評判がよかったです。

               

               ボクは「プラスチックごみ」の授業をしました。これまでいくつも文献にあたり、ネットでも探せる質のよい記事は取り入れました。古い文献にもあたり、大学の図書館に通いながら、中身を充実させようとプリントをつくり、PowerPointも構成し「初級」として子どもたちに提示しました。

               

               プラスチックごみは、なかなかやっかいで、生活の中のほとんどの用品はプラスチックが関わっており、便利さを保障しているわけです。紙おむつからお風呂用品まで「清潔さと軽さ」は私たちにはとても魅力的です。最近は、使い捨ても重要な条件になっており、その面でもプラスチックは大事な材料・原料・素材になっています。

               

               しかし、一方で海に侵入し、ゴミベルトを形成し、環境としては悪くなる一方です。また、化学物質が付着したプラスチックはどんどん食物連鎖に侵入してきます。こうした問題はオゾン層の破壊とか、二酸化炭素と温暖化などと同じように「論議」がされ、確定的な施策としては、国によって足並みがそろわないということが予想されます。

               

               

               「初級」としたのは、今後、この問題が多くの人に語られ、このプラスチックで誰がもうけ、誰があおりを食うのかという問題に行き着くことでしょう。私は、鯨のお腹からビニール袋がたくさん出てきて、死亡の原因になったということを疑うものではありません。しかし、鯨の問題は人間の問題になり得るかというと、簡単ではないような気がします。ボクは、今後もこの問題を追い続けたいと思っています。

               

               さて、今日は澁谷のスタジオ風の空間で、「『お・は』20周年記念イベント」。澁谷から周囲がラブホ街?へ歩く。その一角におしゃれなロフト9というスタジオ風のレストラン?、そこが会場。親子共々40人くらいの参加者と、山田さん、熊谷さん、そして、内田さん、青野さん、大谷さん、桜井さん、それに西野さんまで駆けつけてきてくれて、とてもうれしかったです。

               

               山田さんのからだの話、病気の話以外進化と退化の話もおもしろかった。ばい菌は人間に不可欠。ゲロ(嘔吐)は、しっかりとすること……など、非常識のような常識を楽しく伝えてくれた。そして熊谷さんの障害とは何かという話。「個人的な障害」と「社会的な障害」ということ。そもそも障害はそれ以上でも以下でもない。それを障害として組み込む社会の問題。子どもたちの熊谷さんへの質問や意見はおもしろく原理的。

               

               ボクは、手品のネタを紹介してさっそくみんなに材料を渡して作る。午後は子どもたちの質問「どうして?先生はいつもイライラしているの?」など、深くて怖い難問にいくつかたじろぎながらボクが答える。最後は、熊谷さんと社会の競争原理について話す。スポーツの競争など、いろいろな角度で論議する。

               

               3時半に終了。その後も余韻をみんな楽しみながら……。ボクはスタッフから20年『お・は』編集人ありがとう的プレゼントをいただく。可愛いお花とマフラー、素直にうれしい。

               

               とりあえず、今年のイベントは終了。あとは、原稿と会議。そして、娘や息子、孫を迎える準備をする仕事が残ってる。

               

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                10月28日(日)『ち・お』創刊記念25年イベント in Shelter KUKO cafe&gallary 代々木八幡

                • 2018.10.29 Monday
                • 17:34

                 

                 『ち・お』のイベントがあって、朝5時半起きだったけど、とりあえず、東京の代々木原の会場の喫茶店に、九時五十分集合ということで、頑張ってというか、新幹線が頑張ってくれて、無事到着した。すでに、石川憲彦、山田真、大谷尚子、青野典子、北村美佳 編集協力人集合。ほかスタッフも集合しており、お客さんもぼちぼち来てくださった。

                 

                十時三十分開始で石川さんの話が始まる。石川さんの話は、社会構造の変化を指摘しながら、さまざまな精神的な疾患や価値観の変化による人間の脆弱さの必然性を語る。老後の心配をする時代というのは余裕のある時代なんだけれど、逆に不安が増加している。確かに、いくらお金があってもそれが安心にはつながらない時代になっているし、人間関係も家族から地域まで安定的ではないかならなぁ……。

                 

                 ただ、石川さんはそれでも、不安になるメリットがあるという。つまり、「不安があるという『ゆとり』があるんだ」ということや、「自分でなんとかするしかない」という意志がわずかにもあるということ。逆説的だけれど、危機感は自立を促す面もあるということなのかなと想う。

                 

                 その話の間に、ボクは、来ている子どもたちに変わり絵のおもちゃを配って歩いた。前夜にせっかくだから何か子どもたちにあげるモノがあると良いなあと「じいじ根性」を出して、まあ、人数も6人くらいって聞いていたので、プレゼントを作った。けっこう、面白がってくれてうれしかった。

                 

                 石川さんの話の次はボクが子どもと戯れつつ、遊びについて語るという三〇分。最初は持ってきた小道具で物語遊びを聞かせ、次は用意してもらったギターで歌をうたった。子どもたちは6人ほどだったけど、しかも小学生未満(ひとり小学生っぽかった)ばかりで、かわいい。

                 

                 十分間くらいの残り時間では、大人向けに「遊びの意味」を簡単に話す。ボクは遊びは非日常的なものだから自由で危険が伴うけど、遊び経験は子ども時代に決定的な影響を与えるのだと主張。最近は過剰な安心安全の欲望が高いけど、それは遊びとは真逆かもしれない。余裕のない大人が子どもから遊びの代わりに無菌状態の安心安全を与え、どんどん生きる力?を奪ってしまっている……と想うんだよなと。あとは、男がんばれ!の話。

                 

                 そして午前中の最後は山田さんの免疫とウイルスの話。ウイルスを敵対的に想ってしまう近代医療への痛烈な批判。外敵や環境とバランスをとって、生きながらえ、成長し、進化したのだという観点はすごくおもしろい。山田さんならではの話。

                 

                お昼は、上品でおいしい、非常に健康的なおにぎりやおかゆを、みんなでいただいた。ただし、ボクはとても足らないので、コンビニへ出かけておにぎりを二個こそこそと外の道路で食べる。ごめんなさい。

                 

                 午後は熊谷(くまがや)晋一郎さんがやってきてくれて、山田さん、石川さんを交えて座談会……の予定が、結局、石川さんも山田さんも目一杯時間を使ってリレートーク。熊谷さんにも時間までお話をお願いする。毛利子来さんを忍ぶというかたちで『ち・お』雑誌の成立期のことを石川さんが話し始める。

                 

                 日教組の準機関誌としての「子どもと健康」誌に山田さんも毛利さんも関わっていてたが、そこから自立するために編集員のほとんどが離脱して、『ち・お』をはじめたという二十五年前の話をする。そのきっかけの一つが「岡崎くんの原稿拒否事件」だと。これは、ボクが二五年以上まえに、山田さんから原稿依頼を受けた「子どもと健康」誌への愛知県教組からの苦情問題である。当時ボクは日教組傘下の愛知県教員組合や名古屋市教員組合に「もっと強くなってくれ! 御用組合になるな!」と檄をとばしていたので、執行部から嫌われたのだ(笑)。

                 

                 山田さんは、毛利子来さんに出会った頃のことを語ってくれた。毛利医院は原宿にあったけれど、当時は、貧しい人たちが集まっている地域で、土地も安く、弱者を支えようとする人や仲間が集まっている地域だったという話。毛利さんは「子どもを泣かせない」診察を心がけ、毛利医院から帰りたくないと言って泣く子どもたちだったという。そして子どもの声を聞き、お母さんが代弁しないことを強く言ったそうだ。なんだか、毛利さんのすごさが迫るような話だった。

                 

                 熊谷さんは、ご自分と母親の壮絶なしかし、愛を感じる「闘い」の幼少期を話してくれた。そして、障害は社会的な課題であって、障害者個人の課題ではないという一貫した論理を丁寧に説明してくれたし、『ち・お』が長年積み上げてきた貴重な知と力を高く評価してくれた。今後も、もっともっと力を貸して頂きたい。

                 

                 フロアーからも45分あまりたくさんの人から質問や意見をお聞きして、三時半に山田さんの長いまとめの挨拶でお開きとなった。ボクも、ちょっとぐったりして、気持ちのいい疲れをもって会場をあとに東京駅に向かった。

                 

                 東京駅も、新幹線も、名古屋駅も大変混んでいて、みんな元気に生きていると思った。人間はどんな苦境に立っても、生きている限りなんとかなるもんだとずっと思ってきた。明日はどうなるか分からないけれど、慎ましく先人の言葉を大切にして、街の片隅でくらせればいいやと思った。

                お・は』記念イベントは12月16日日曜日澁谷でやります!

                 

                 

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                  10月8日(月曜日) 目の回る5日間。思考が…… じじぃ化する。

                  • 2018.10.08 Monday
                  • 20:59

                   

                  ここ五日間はとても「詰まった」毎日だった。メモ的に……

                  3日の夜に、三件の様々な相談にのり、複雑で分からないこともあるので、相談しながらも頭の中がくちゃくちゃになっていくことが分かる。「つかれてますねえ」とか言われるが、相談してくれる人に冷たくするのはいけないなあと。つい、自分で考えてくださいと言いたくなる。むろん、そんな失礼なことは言わないけど。

                   

                  4日の木曜日は午前中、川崎市の「かわさき市アカデミー」の連続講座に参加。九〇分あまり、小学校の思春期の話をする。「時間に追われる生活」が子どもたちにも影響し、全体に忙しくなっている。忙しいということは、コミュニケーションの質が変化するということでもある。問題や課題、メニュー選び、思考などがすべて、軽薄短小となりがちになる。

                   

                  もちろん誰もがそういうわけでもないかもしれないが……。ところが、別に思考ツールやコミュニケーションツールが変化していて、若い人はそれに即応しているからいいじゃないか!という意見もあり、それをボクも否定しない。だが、質は変化するはずだし、善い変化と善くない変化があるはずだと思う。

                   

                  もし携帯やスマホ、SNSがなければ、連絡方法は家電だ。留守なら捕まるまでに時間がかかる。で、その間に、伝えたい情報が冷静さと公正さを取り戻し、再度、自分の考えを組み立てることができる……はずだ。熱を込めて書いたラブレターが翌朝読んでみると、「まずいな」「押しつけがましいな」「勝手なこと書いているな」などと反省し、出さないままになってしまうということもあった、「出さなくてよかったよ」って、若い頃は。

                   

                  実際、原稿を書いて、すぐに送信してしまうと、ひどい文章だったりするので、少なくとも、書いてから1〜2日は「置いておく」ようにしている。

                   

                  子どもたちの間のSNSがいじめ問題を複雑化しているのは事実だ。実務的なことならいいじゃないか!と思わなくも無いが、SNSのやりとりの早さによって、忙しくなることもたしかなのだ。

                   

                  この日の帰りに武蔵小金井のJR駅を横須賀線の方に向かわずにうろついて、ぐったりと歩き疲れる。この講座の次回は宮台さん。

                   

                  5日、学校では、行事で授業がカットされたので、5年生の実験のための砂山つくりに屋上にある畑で仕事をした。幸い、雨もなく、屋上の学級園にはりつく。五年生の川の流れを砂山で実験する。三クラスあるので、きっちりと作っておかないと、あとのクラスほど「洪水」がおおきくなり、実験がうまくいかない。ところが、ひさしぶりに屋上にきてみると、くさがぼうぼうと腰の高さくらいまでで、まず、それを抜くのが大変だった。最低でも一坪は必要なので……汗かいた。

                   

                  それが終わったら、六年生でやった、水溶液実験の後始末で、塩酸と水酸化ナトリウムの水溶液などのしまつと、試験管やビーカーの洗浄でこれがやはり三クラス分あるとけっこうな数になる。非常勤なので実験準備や後始末が時間外の無給労働になるので、できるだけ休み時間にやるのだが、この日は授業がカットされたので助かった。劇薬の残量を点検して記録し、終了。

                   

                  その後、相談が一つ、夕刻は一つミィーティングをして、そのあと、ヘロヘロで帰る。

                   

                  6日の土曜日は午前中に取材を受けた雑誌の原稿の確認作業をして、昼食が高校時代の同窓会。ボクは名大附属高校19回生卒業で、35人くらい(135人中)の参加。担任でもあった恩師の藤田佳久先生(愛知大学)もいらっしゃった。最近の先生の著書『歴史の中の東海地震・リアル』(シンプリ)の話でもりあがる。先生がなんどもNHKのニュースなどで取材を受けていたのをボクも視ていた。その本を当日に持って行った。サインでもしてもらおうと思ったのだが、みんなに回して見せているうちに、受け取るのを忘れて帰宅してしまった。だれか、保管していてくれただろうか?

                   

                  卒業後はじめて会う懐かしい東京在住の友人が来てくれて、一緒にサッカーをやっていたころの話をする。ボクは高一まで坊主あたまだった。当時の写真をたくさん持ってきてくれた。ぼくは地学の先生に「おまえを、ジオイドと呼ぶからな!」と言われるくらい、坊主頭の形は地球のように丸くへこみもなくいいのだ。中身はたいしたことはないけど頭の形はとてもよいのが自慢だった。友人は、一年生最後の春休みのときに数人で、転勤する先生(藤田佳久先生)への歌を作ったことをしっかり覚えていて、「今でも岡崎の作詞したあの「さようなら」という歌をうたえるんよ」と言ってくれた。高校時代に友人と作ったオリジナルは100曲くらい(そんなに多くなかったか?)、とにかくたくさん作って歌っていた。元気で会えたことに感謝だ。

                   

                  7日の日曜日は、先週台風で延期になった名古屋市の「昭和区九条のつどい」に参加、講演を一時間くらいする。200名くらいの参加だということだった。憲法の話を子育てにつなげて、今学校も家庭も子育てが大変だというけど、結局、ぼくら親や祖父母が元気な姿を見せることがまず第一ではないかという、シンプルな話をさせてもらった。たくさんの人の中に、新卒時代にお世話になった業者さんや、三十代になんどもお世話になった女性の学年主任が声をかけてくれて、なつかしく思い出すと同時に、「わしも年寄りなんだぞ!」とあらためて自覚した。節度と謙虚さを忘れないようにと、めずらしく、生きていることに感謝した。たくさんの人が声をかけてくれて、来てよかったなと思う。しかし、実行委員は大変だよと思う。お疲れ様でした以外にかける言葉が無い。地道なこうした動きが重要なんだよなとつくづく思う。

                   

                  夕刻は名古屋丸善本店でやっている「本路地」イベントを見に行った。友人の出版社「ゆいぽおと」も店を出しているので応援。いくつかの出版社が路地で販売をしている。よく知っている出版社もあって、談笑しながら3冊購入。

                   

                  8日本日は、本の整理と本の一部虫干し。ただ、泣く泣く「集英社日本文学全集88巻」を数冊保存して廃棄した。大学一年生のころから、毎月2冊配本560円を買い続けた。かなり役立ち、この全集にない戦前の作家はほとんどなく、網羅されていた。カミュ全集はかなり箱もくたびれてきたが捨てられなかった。午後は、『お・は』103号の原稿がほぼそろったので、「はじめに」を格調高く書こうとして失敗。いつもの感じとなる。本箱の写真を整理し始める。子どもたちに、自分の写真アルバムを持って行って欲しいのだが、電話で「段ボールに入れて送ろうか?」 と聞くと、「置くところが無いから置いておいて」と言う。「はあ!?」 子どもたちの写真は捨てられない。今の子どもたちはクラウドにあげてあるから、始末はラクなのかな?

                   

                  さて、明日は7年目の節目を迎える身体である。

                   

                  写真整理で見つけた一枚で、25歳のとき、クラスの子どもたちと授業中に公園に遊びに行って撮った一枚。パンチパーマでグラサンです。よく、授業に飽きると公園であそんだなあ。この中の子どものお母さんとは未だに手紙のやりとりをしている。彼らもすでに50歳くらいだ。

                   

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                    9月30日(日曜日)味沢さんの『DVはなおる』という本のこと

                    • 2018.09.30 Sunday
                    • 12:37

                     

                     二冊の本は「男性の生き方」私の言葉で言うと「男生学」(「男性学」とは違う)の参考書だ。一冊は白岩玄著『たてがみを捨てたライオン』(集英社:2018年9月30日刊)。もう一冊は味沢道明・中村カズノリ著『DVはなおる・続 被害・加害者が語る「傷つけない支援」』(ジャパンマシニスト社:2018年9月18日刊)である。*ちなみに、本書以前に正『DVはなおる』が(2016年ギャラクシーブックス出版)ある。

                     

                     最初の本『たてがみを捨てたライオン』は小説。たてがみは「自分の強さを誇示する雄ライオンのたてがみ」のことで、人間男性にもあるみえない「男らしさ」のたとえ。出てくる男性たちは三人。直樹、慎一、幸太郎たちは、それぞれが、仕事、夫婦、親子、恋人、友だちという生活に関わる人との関係の中で「男らしさ」を問う。そこには、反面教師の男もたくさん出てくるし、中途半端な「女性への物わかりのよさ」が、根本的には何ももたらさないということも語られる。

                     

                     決してハッピーエンドだけではないが、おもしろさの中に男女の本質的な課題を明示する。性別役割分業のこと、女性の権利拡大への躊躇、男性のする家事育児への社会的目線、会社での男性化した空気など、現代の抱える「メンズリブ」の困難さを、素直に物語の中に織り込んで読ませる。男性的に「がんばれば何とかなる」とか「勢いと力」で解決できるという主張を、ちょっと距離を置いて考える良い小説だと思う。

                     

                     さて、今日の本題は、後の本『DVはなおる』だ。味沢さんとは旧知の仲。『お・は』にもときどき登場してもらっている。正直言うと(笑)、掛け値無しで、とても良い本だ。18人の男女体験者の物語はリアリティありすぎでほんとうにいい。これは、「あるある」を超えて、どこにでもありそうだけでなく、これから自分も出会いそうな「物語」だったり、今継続中で参考になる人もたくさんいると思う。

                     

                     この本の一番の特徴は、DV加害者と言われる男性の立ち直りを「説教」や「理念」だけで語らないところだ。私の友人でもある相談専門家は最近のDV事案について「加害者男性の話を聞くと、自分は反省しているんですが、どうもどの程度、どの深さで反省しているかが不明ですね。どこかで相手に責任がある、こうなったのはあいつのせい……というところから抜け出られない。それから、一方的に男性だけの問題で片付けてしまって良いのか?ということ。妻や子どもの立ち位置や家族の在り方が問われなくて良いのか?という点で、DV男性への非難だけで問題が終始してしまうところも、最近は問題ですね」と言う。味沢さんは、こうした現実を踏まえて本書を作っている。

                     

                     味沢さんは、フェミニズムにも問題を提起している。誤解されるといけないが、それは、フェミニズムを敵視して「男性を取り戻せ」的な古ぅ〜い、どうしようもない男尊女卑や性別役割分業や、「性の多様性」も無視して、「男性らしさ」「女性らしさ」を強調するジェンダーバイアスばりばりの神話づくりとは違う。味沢さんは1990年代にフェミニズムに深く関わり、フェミニズムだけでは男性の問題は解決しないということで京都・大阪で「メンズリブ研究会」を仲間と立ち上げた。私も、「男にも女にも育児時間を・名古屋」を立ち上げて、遠くからささやかに支持していた。

                     

                     その後、味沢さんはDVや夫婦の問題に悩む人たちを支援するために「日本家族再生センター」を開設し、今に至る。のべ5500件以上の案件に対応しており、蓄積も半端ではない。そこで磨き上げた「複合的支援」というノウハウも本書には書かれている。基本は「傷つけない支援」である。誰かが悪い!という論理だけでは、いくらカウンセリングを重ねても元気や勇気は出ない。彼の一つのキーとなる考え方は「パワーコントロール」に執着しないことだ。人は、人との関係で、優位に立とうとする。男性で、自己肯定感が不足していたり、防衛的すぎ攻撃的すぎると、家族に対してDVやモラハラをする。そうしたパワーコントロールは家族(ひいては社会)では通じないと、男性(女性)に理解を促す支援を追求してきた。

                     

                     先に述べた友人の専門家によると「妻からのDVがある場合に、多くの都道府県では、女性のようなシェルターが男性にはないのです。これは大きな問題です。DV被害者はとにかく守らなければなりません。男女関係なくです。DVは被害者・加害者を超えた支援や保護が必要なのかもしれません」と言う。味沢さんのセンターでは男女関わらずシェルターがあり、利用者も多い。

                     

                     とにかく、男性への支援はここから始まるという本。味沢さんは「非暴力の社会につながる」とこのメンズリブを位置づける。パートナーとうまくやっていくためにも、また「今、ちょっとまずいな」と思っている人にも読んで欲しい本だ。

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