6月11日(月曜日) 『学校目線。』リニューアル『お・は』101号です。

  • 2018.06.11 Monday
  • 19:57

 

リニューアル101号をお送りします。

 

今回から リニューアルしました。単行本的学校ブックとなりました。だいたい2ヶ月から3ヶ月おきに発刊する予定です。すでに、102号の仕込みに入っています。値段も上がりましたが、内容には自信が……まあ、あります(笑)。

 

今号は、といっても、岡崎勝シリーズ,箸いΔ海箸如△垢戮謄椒の文章です。いままで、『お・は』に書いてきたものをまとめました。なかなか、いいですねえ(自画自賛)。

 

『学校目線。』というのは編集部のつけた表題ですが、なかなかいいです。学校目線は親からすれば、『上から目線』ということになるでしょうか? 教員はそういう自覚はほとんどないので、ぜひ本書を読んで、いろいろと、賛否両論で考えて欲しいです。

 

教員の立場なら、親の気持ちをある程度は分かったうえで、話してほしいと思うわけです。ボクは親からたくさんの相談を受けます。たしかにやっかいだなと思うこともあります。めんどくせーと感じることだってあります。それに、親の立場を考えると言っても限界はあります。ただ、それでもなお、努力して、分かろうとする気持ちが重要なんだと、ぼくは自分にいいきかせています。

 

それが、どの程度、本書に反映されたのか、ご賞味ください。アマゾンでもホントでも大丈夫です。

 

次号102号は「平成現場ぶっちゃけ教育史」みたいな感じです。お父さんやお母さんの小学生時代はどんな教育だったんだろう?という視点でつくっています。いろいろな方に取材、執筆をしてもらっています。ボクもかなり書き下ろします。次号もお楽しみに。

 

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    6月3日(日曜日)毛利子来さんを語る会 in 青山

    • 2018.06.04 Monday
    • 07:31

     

     「毛利子来さんを語る会」がクレヨンハウスのレストランで開かれた。今日は、一日朝から『お・は』102号の取材対談。そのあと、午後五時半に表参道青山をとぼとぼと、午前午後の『お・は』の仕事でくたびれた体を運んだ。クレヨンハウスはお客さんで混んでいる。さすが東京。落合さんには会えなかったが、毛利さん関連の人がたくさん参加していた。

     

     会費6500円を支払って、受付を通過。受付には内田良子さんや『ち・お』編集協力人の何人かと、クレヨンハウスの職員がスタッフ的仕事をしている。100人くらいの人だが、久々に会う人が多い。昔の『ち・お』『お・は』の編集部の濃いメンバーと話す。しかし、歴代の『ち・お』『お・は』編集部専門家集団が並ぶと、すごすぎる。つくづくボクは有能な編集部専門家にめぐまれたのだなあと感動する。今は翻訳家&作家になってしまった斉藤真理子さんは、相変わらずすごい。何がすごいかはわからないけどすごい。いくつかの出版社の人も集まっていた。

     

    『ち・お』編集協力人の先輩の方々(笑)にも久々に会って、「ごぶさたしています」とご挨拶。末席に座ってへたっていると、いろんなひとが前を通ってくので、そのつど、ご挨拶。芹沢俊介さんと北村小夜さんにもいやはやとご挨拶。とにかく、ご挨拶のペコペコ人間となった。

     

     上野千鶴子さんは後ろ姿を拝んで挨拶はせず。まあ、とにかくいろいろな話題の人が一杯だ。毛利さんを偲んでみんなの挨拶と話を聞く。石川憲彦さんの体調が悪いので、もし欠席したら、ボクが代わりに挨拶ということになってたけど、石川さんが頑張ってきてくれたのでほっとする。

     

    石川さんの話は、すごくいい話で、毛利さんの人となりがよく分かる、しかも、格調高い話だった。けどちょっと長かったので、挨拶を終えてきた石川さんに「石川さん、話が長いですよ。20分ですよ。ま、でも、いい話だったんで許します」と言うと、頭をかいて苦笑いしていた。でも、本当に石川さんしか話せない、いい話だった。6/21には石川さんと対談だったな。また上京だぁ。

     

     ちょっと早めに会場を失礼して、暗くなった青山を歩く。でも、表通りから一本入ると、ほんとうにおしゃれなお店が多いんだよな、このあたりは。若い二人が肩寄せ合ってあるくにはいいよなあ。金がなくても、散歩にはいいよなあ。歩きながら、毛利さんと話した、たくさんのことがぐるぐると頭の中をめぐって、ちょっと鼻の奥がツンとなってしまった。銀座線と丸の内線を乗り継いで東京駅に。帰名の途についた。今日の日記終わり。

     

     

     

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      5月27日(日曜日)オントロジーという話 宮台さんと

      • 2018.05.27 Sunday
      • 20:38

       今日は『ウンコのおじさんトークイベント』のとりあえず、一区切りの日。下北沢で30人くらいの集会。尹雄大さんが今日は都合で欠席なので、宮台さんとぼくでトーク。

       

       ぼくは最初に「程度の問題」という、簡単な実験をして、宮台さんの話につなげる。今日は、宮台さんは突然(笑)オントロジーという話をしはじめる。オントロジーというのは「なぜ、それはそれなのか?」とか「どうしてそれはここにそれとしてあるのか」という存在論である。つまり、人間というのものをオントロジーとして考えると、それほど、普遍的なものではないし、ある種の物語の工作によって人間概念というのもはできているんだ……。

       

       だから、そうなると、人間的とか、人間のために、人間ならこうあるべき……などという言い方はなかなか困難になるのではないか。そして、安易に人間的などといえないでしょうよ……という。人権や権利なども、そうした視点を欠いてはならないと。宮台さんは、人類学や、人類史の視点から、かなり濃密な話を展開する。これは、かなり込み入ってはいるけど、根源的な大事な話なんだからしょうがない。ちんぷんかんぷんの人もいるだろうと思うけれど、その通りなんだからしょうがない。

       

       まあ、ぼくも、けっこう話題を絞って.宮台さんに迫るが、なかなか難しいが、でも面白い話に展開する。虫(昆虫)の話をしたときに、今の子どもたちは本当に虫に弱くて、ちっちゃな、ほんとうにちっちゃな米つぶくらいの蜘蛛でも、授業が中止するくらい、教室は大騒ぎになる。お父さんたちがこうした虫取りや自分の得意なものを子どもに見せることで、ある種の敬意と信頼を勝ち取ることができるだという話も、若いお父さんには、ハードルが高いのかもしれないなあと思った。昆虫のことは、子どもたちの生活経験が収縮している象徴的なことだろう。

       

       そんなこんなで、二時間終わった。この集会には、以前名古屋の学校でお世話になった保護者が二人も来てくださって、ホントなつかしいと、しばし歓談。お二人とも元気にこちらで過ごされていると言うことで、年を経ても笑顔で会えてよかったなあと思う。

       

       しかも、もう一人若い男性が、ぼくの教え子の名前を言うので、えっ?というと、それがいとこだと。かれは大学で頑張っているそうでまた会いたいといってくれて別れた。あとは、これまた、地元の知人の友人だというお母さん。なんだか、いろいろなところで、縁がつながっているなあと思った。下北沢まですら……。そういえば、もう一人、世田谷区長の保坂展人さんも来てくれていて、会えた。保坂さんは若い頃、ほんと若い頃からの知り合いで、どんどん立派になっていくんで、お兄ちゃんはうれしいよ(笑)。……と、なんだか懐かしかった。

       

       今回、宮台さんとイリイチやシャドーワーク、ジェンダー、そして栗原彬さん、山本哲士さんの話ができて、それも楽しかった。いやはや、みんなどこかでつながりながら、切磋琢磨しているんだなあと思った。よい、日曜日だった。

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        4月22日(日曜日) 授業は脱線こそ命!……またクソ真面目な教員が怒るかな(笑)

        • 2018.04.22 Sunday
        • 14:45

         

         とても暖かくなってきた。名古屋はいつも、暑くなるのも寒くなるのも早い……と同居人は言う。しかし、ボクは暑くてもいいじゃないかと思う。しょうがないじゃないかと思う。先週から本格的に授業が始まって、高学年の理科の専科的指導をしているのだが、三年目の理科もちょっと飽きてきた(笑)。もちろん、子どもたちは初めての高学年理科であるし、中身もかなり濃い・おもしろい・難しいのミックス味なので、仕事的には、脱線したりするが、面倒でも、かなりていねいにやっていく。

         

         今は、五年生の天気の学習をしているが、天気なんてのは考え出すとおもしろいことばかりだ。「今日は天気が良いわよ、よかったぁ」というときに、空を見ると曇りだったのだが、なぜだろう? と子どもに聞く。あるいは、空を見ると雨がかなり降っているのに、「今日は天気が良いわよ、よかったぁ」というのは、なぜだろう? と聞いてみる。こんな話は真剣に食いついてくる。

         

         前者は遠足に出かける日だからというのが「一つの正解」だ。遠足は雨が降ると中止だからね。雨さえ降っていなければ「良い天気」なのだ。後者は「雨がちっともふらない畑で野菜を作っている人」という意見が子どもからも出て、そのとおり。私は「傘が売れなくて困っているお店」というのを考えていたが、子どもの方が「良い答えだ」と思った。

         

         雲はなぜできるのだろうか? 水蒸気の粒ですというのは理科好きな子だろう。別に雲なんて、なんでできていたってかまわないのだ……という子もいい。でも、雲がどうしてできるかということを知っていると「おもしろい」と言ってくれる子がいると、ちょっと盛り上がる。ペットボトルで気圧を上げ下げして、中にインスタント雲を作ってみせる。分かったような分からないような……。

         

         水蒸気の話をしているときに、水を沸騰させる実験をした四年生のときの話になり、温度がなぜ100度にならないのかという話から、アルコール温度計の話になって、まぁ、どんどん脱線していくんですねえこれが。アルコール温度計って「お酒?」という話が出て、この赤い液体はなんだろうねえ?と聞くと、「液ダメ」という。これは、学校で、テスト的に、授業で教えてもらった言葉だけを忠実に答えている子どもたちだ。とても健気だよ。怒ってはいけない。液ダメ?液は「だめ」なの? 液だめ→液をためる(溜め)で液溜と書く……下に赤い液体がたまっているので、「液溜」と教えて、この液体はなんだろうねえ?と再度聞く。

         

         これはアルコール温度計っていうけど、「アルコール」かな? と問うけど、そりゃわかるわけないよな。 そこで「じゃあこのアルコール温度計を割って中の液体を取り出しましょう」と言うと「えーっ、それいいのぉおお?」と子どもたちは叫ぶ。「勉強のためなんだからね、1本くらいね、わっちゃうよ。君たち知りたいでしょう、割っちゃいましょう。先生が叱られたら『何かな?』と疑問を持った君たちのせいだからね(笑)」と言って、ペンチで挟み割る。そして、シャーレにあけて、まわして子どもたちににおいをかいでもらう。

         

         理科でにおいをかぐときは、「よこから軽く手であおいで、たくさん吸い込まないこと」も教える。それでも「ウッ」と言っている。「家の石油ファンヒーターのにおいだ」ということが分かる子には分かる。つまり「灯油」ですねえ。安いので灯油を使っています。「温度計わっちゃって、校長先生に叱られませんか?」「いい人しか校長先生になりませんから、多分大丈夫だと思うよ(笑)」と。「でも先生、念のため窓を開けておきますね、においが……これでばれないよね」というやさしい子どもたちであった。

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          4月17日(火曜日) 4/15 父親のコンテンツ 「ウンコのおじさんトークショー」

          • 2018.04.17 Tuesday
          • 17:18

           

           日曜日、新宿ブックファーストで宮台さんと尹さんとボクでトークショーをしたのだけれど、毎回おもしろい。聴衆は満席20名余。新宿西口から迷わずに本屋さんに行くことができた。到着が早く、二人を待つ。聴衆は老若男女いろいろの個性的な方々(笑)。

           

           今回はいつも以上に、ボクは話題をいくつかチェックしていった。それを二人に順番に振っていく。最初は、父親の悩みとして、「家庭の中で父親の存在」というものについて話をしてもらった。共通認識としては、父親は母と子の間にはいり、社会性を家庭に持ち込むのだという。ごくオーソドックスな父性論がある。それ自体は「父性」を「父親」に限定しなくても良いわけで、「ウンコのおじさん」はその社会性・地域などと家族をつなぐ位置なのだ。それをどうとらえリアルなところで現実化するかということを考えた。。

           

           宮台さんの話は具体的で、ご子息とのやりとりの中で、「コンテンツ」ということが中心になった。以下は、ボクの解釈ですが、つまり、子どもと父親(母親も同じ)の場所をどう作るかということだ。場所という感覚は時空だけのことではなく、そこで営まれる行為をどう構造化するか、あるいは構造化しないかということが迫られる。……などというと難しくなるので簡単にいうと、子どもから尊重されるような人間関係を作れるような内容=コンテンツですね、それを父親は身に付けているかが問題なのだと。

           

           宮台さんのコンテンツは、昆虫だったり、怪獣だったり、アニメだったりする。それを子どもとの場所をつくるためのコンテンツとするわけだ。これは、「なあんだぁー」と思うかもしれないが、単純に子どもの興味に迎合する、つまり子どもにサービスすればいいということとは全く違う。宮台さんの話を聞いていると、子どもに「迎合」していない。これは重要なところだ。子どもと付き合うときに「主従関係」「共依存」「所有するものとされるもの」という関係性以外を求めるのだ。サービス論を超えなければならない。

           

           子どもの知的好奇心や内発的な動機と共振するようなものを父親が持っているか!ということにつきる。父親の自己中的趣味に子どもが付き合わされているのではない。子どもが親を尊重しながら「楽しめるか」ということだ。「どうだ、虫ってすごいねえ」と子どもと驚嘆しながら、同時に父親を横目で見ながら「おやじもけっこうイケてるなあ」と子どもが思うかどうかなのだ。これは、けっこうハードルが高いけど、本質的だなと思った。

           

           性愛の話でもけっこう盛り上がったけど、性教育については「お互いを尊重できるかどうか」が決め手ですねと断じた。それ以上でも以下でもないなあとボクも思った。ボクはけっこう男子に性の話をしてきたが、究極のところは、相手が同性であれ異性であれ「尊重」できるかということだと思っているので同感。損得勘定で生きていれば、相手を尊重なんかしないよね。相手と付き合うことで、損するか得するかみたいな話はクソ(失礼!)ですねということだ。

           

           隗より始めよというのは基本ですね。

           

           今度は5月27日日曜日午後2時受付2時半開始、午後5時終演。世田谷教会で、一応くぎりの「ウンコのおじさんトークショー」です。ぜひ来てください。問い合わせはジャパンマシニストまで。

           

           

           

           

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            4月7日 土曜日 給食の時間がゆっくりにならなければ…… 「いいこと」の抑圧

            • 2018.04.07 Saturday
            • 13:41

             

             一昨日、亡くなった恩師の奥様と自由すぽーつ研究所所員全員で焼き肉を食べたが、ボクはたくさんは食べられなくなっている。常日頃、「教員の早食い」という癖をやめるようにと同居人に厳しく指導されていたので、じっくりゆっくりと肉をかんでいると、すぐに満腹になってしまう。それ自体は良いことなんだろうと思うが、担任を持って仕事をしていたときは本当に今以上に「教員の早食い」だったなあと思う。

             

             働き方改革とか言ったって、結局は教員のブラック労働は変わらないだろうな。

             

             最近の「ブラック部活動」の話題だって法的には「顧問やめます、やりません」と言えば、あるいは書面で出せば、やめられるのだ。もちろん、人間関係上やめられないという先生も多い。でもね、職員室で「自分を縛る人間関係」を「重要」だとか、優先順位を「優位」にしなければいいんだよね。そうすれば問題はない。……と言っても、「それがなかなかできないんです」ということなんだろうから、偉そうには言えないけど。

             

             経験上言えることは、そんなことで壊れるような人間関係などいらないと思った方がよほど気楽に仕事はできる。褒められたくない人、認められたくない人に、自分が褒められたり認められることほど嫌なことはないのだ。自分が嫌な奴には、自分も嫌がられた方がいい。シンプルでしょ。

             

             ブラック部活をなくす、あるいは軽減するために、文科省や教委から「通達・通知」が出ているようだけれど、本来は現場自身で縮小あるは廃止あるいは適正化するような「現場力」が必要なんだよなと思う。これは幻想でなく原則だと思う。強い部活顧問や偉そうな部活顧問の発言力が強いことが問題なのだ。むろん、今回の文科省などの動きは、現場の問題提起や改善署名などの積み重ねなんだけれど、実は現場ではまだ依然として、部活動について相対化できているわけではない。名古屋も小学校の部活動は廃止の方向性が出て、スポーツ少年団もないところで、どうやって受け皿つくるか……みたいな話が出ていて、若干現場は混乱している。でも、部活問題は中学校の方が本丸なので、そっちはまだ時間がかかるだろう。受け皿考えていたら100年かかる。

             

             自分自身は部活はもともと趣味としか考えていなかったし、いまでもね。自分の健康のためにも部活を適当にやってきたので、帰りがさほど遅くなることもなく負担だと思ったことはなかった。子どもたちも適当に参加してくれてうれしかった。土日はやらなかった。一番大事にしていたのは「チームが強くなるために頑張ること」を押しつけないということだ。楽しくやろう!だけ。自分自身が親になり子育て期間に入ったら、部活顧問を速攻でやめた。

             

             最後の勤務校で、元気な女子がサッカー部を立ち上げるから、その顧問になってほしいと言われたときはかなり迷った。そのときの女子サッカー部は、10人弱で、子どもたちはキャーキャーいいながら週に一日〜三日やっていた。完全なレジャーで。しかも、そのころは、ぼくは見ているだけだった。教えてくれと言われたときだけ教えた(笑)。本務でないことは、子どものためと先生のためとが半々くらいでちょうどいい加減なのだ。

             

             結論的には部活なんかより「教員の早食い」がなくなるくらいの働き方改革が教員には必要だ。ボクは給食の時間に日記を見たり、丸付けしたり、片付け仕事をしたりしていた。だから五分くらいで食べてしまい、子どもが静かに食べているウチにその日にやらなければならないことをした。連絡帳の返事などはその時間か、休み時間しかない。それでも、そういう仕事がない、めずらしいときの給食時間はどうしたか?

             

             子どもとおしゃべりしていた。テレビ番組やおもしろ事件などリアルタイムで楽しい話題で話した。子どもたちもときどき、食べるのも忘れて話に夢中になってとても良い時間だった。だんだん、給食の時間に実務的な仕事するのが馬鹿らしくなったので、早食いはなくならなかったけど、食べた後はできるだけ、「まったりとすごす」ことにした。

             

             低学年のときは、給食の時間に、牛乳びんの丸い紙のふたの裏に油性ペンで可愛い(あるいはおもしろい)子どもの顔を描き「わたしは元気な子」とか「わたしは勉強大好き」「ボクは野球がとくい」などとコメントを入れ、裏に安全ピンをガムテープでとめ、名札の上や横に留めてやった。「ほしい人?」と聞くとみんな手を上げるので、一日に2〜3つ位を作ってやった。一人ひとりみんな違うので、作りながらもおもしろかった。ボロボロになるまでつけている子がいて、気に入ってくれたのがうれしかった。

             

             このふた遊びはけっこういいなあと思って他の先生にも勧めたけど、余計に忙しくなるので「無理ぃ〜」と言われてしまった。根本的に忙しいのは、教える中身が多すぎることにある。持続可能な教育活動と学習活動を考えるべきなのではないか? いいことだからとどんどん詰め込め!というのは、「いいこと」が過剰になれば抑圧になるという原理が理解できないからだろうと思う。

             

             

             

             

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              3月29日「ウンコのおじさん」トークイベント in 池袋ジュンク堂

              • 2018.03.30 Friday
              • 17:12

               

               昨日、池袋ジュンク堂で宮台さん尹雄大さんとトークイベントを午後7時半からした。テーマはとくになく(笑)、最近ジャパンマシニストから刊行した『ウンコのおじさん』の本をネタに家族から父親論、若者論などにわたって果てしなく続くような、結局90分間弱のイベントだった。

               

               ボクは池袋ジュンク堂になかなかたどり着くことはできなくて、東京メトロで池袋駅39番出口とだけ念じながら地上に出たのだが、まったくジュンク堂が見当たらず、結局うろうろと20分くらいさまよってしまった。昔は池袋の西口のホテルによく宿泊していたのだが、やはり、習慣的に、しかもパブロフ的反射では新しい場所へはすんなりと行けなかった。

               

               最初に宮台さんは最近乗船したピースボートでの若者向けの恋愛論性愛論をレクチャーしたのだけれど、そういう話に若者が寄ってこなくなってしまったのだということを話した。つまり、若者が「なさけなくなってしまった」ということなのだと、とりわけ性愛へのエネルギーが低下していて、それの理由はおそらく「コスパ」や「費用対効果」(尹雄大さんの話)を恋愛に持ち込んでしまっているから「怖がってしまう」のだろうということだった。

               

               宮台さんは最近ずっと「損得で生きる」ことの危険性やつまらなさを訴えてきているが、納得できる話だった。さらに、子どもを育てる話になると、親が子どもを抱え込んでしまうことの危険さにも言及した。これは、ボク自身もかなり明確に言えると思うのだが、宮台さんは子どもの育ち方において、囲い込みはいいことがないという。ボクは親にとってもよくないというか、子育てがしんどい話になっていくのではないかと思っている。

               

               最後に社会規範の話になったけれど、良きにつけ悪しきにつけ、規範をどうやって身に付けるかということが道徳の授業なのだが、それはやはり難しいだろうなあとボクは思っている。つまり、社会規範はリアルな生活の中でしか身につかず、その社会規範にどう向き合うかと言うことについては、価値観が多様化しているので「教養」の見直しが必要だと思っている。

               

               「教養」は元々一部階層のプライオリティーとしてであったけれど、一般庶民つまり、ボクらの中で積み上げていかないといけないのではないか。人権とか民主主義については、すでにある完成された既成の概念としてでなく、それをいろいろな側面で歴史や社会を考えながら論じられるようにするべきだ。

               

               トークの後で、サイン会が催されて、何人もの人には『おそい・はやい・ひくい・たかい』も買っていただいた。今回のお客さんは30人くらいで、年配の男性から若い女性までいろいろと来てくださった。リピーターというか、常連さんもいてとてもありがたいことだ。宮台さんの歯切れのいい論議と、尹雄大さんの分かりやすいが本質的な話に同席できたことがうれしい。

               

               九時半ごろになって、おなかがすいたので編集部の人と食事をいただいて、ゆっくり話もでき今後も本音で頑張ろうと思った。最近は、自分の文章に毒がなくなっているのではないかと感じることが多くなった。周囲への「忖度」(笑)なんだろうなあと思う。

               

               今度の『おそい・はやい・ひくい・たかい』101号は、ほぼボクが書いたもので埋め尽くした。昔書いた文章もたくさん入れてあるが、なんだか昔の文章はいいなあと自画自賛(笑)しているので、お楽しみに。20時間の名古屋ー東京往復旅だった。

               

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                3月21日(水曜日) 卒業式は 華美? 地味? しょうがないこと

                • 2018.03.21 Wednesday
                • 10:05

                 

                 昨日3/20火曜日は、勤務校の卒業式だった。11時半の送り出しだけは参加しようと思って出かけた。会場の体育館ではすでに呼びかけが始まっていた。こっそりとギャラリーの上からのぞいてみたが、元気なみんなを見て「やれやれ、とりあえず卒業だな」と思う。袴姿の女の子もけっこう多かった。

                 

                 袴についてはこの時期になると話題になる。子どもたちはただ「着てみたい」のであって、深い意味などないと思う。ファッションなのであって、大人が思う「華美」「高価」というような価値観で子どもは見ていないので、ダメ出しがしにくい。ただ、これはなんでもそうなので、スマホだってゲームソフトだってなんでも「子どもは欲しがる」ものだ。それに応えるか、応えられないかはひとえに大人の問題である。

                 

                 卒業式の袴を「規制」しようという市教委の動きがあると聞いたが、実際には「禁止」という字句は使いにくいだろうと思う。袴を望ましくないと思っている大人は、「小学生の卒業式にふさわしくない」「高価で、着せたくても着せられない家庭もあることを知るべきだ」「トイレなど動きに問題が出るので教員が大変だ」などなど大人の理由を挙げる。

                 

                 私は「どっちでもいい派」なので、ご家庭で考えてくださいとしか言いようがない。それと自分のときは「先生は着付けもできないし、トイレも付き添えないのでそれは覚えておくように」と話したことがある。これは、どんな衣装でも同じだから、毎回言っている。以前、つけてきたコサージュが壊れて大変なことになった覚えがある。その子は卒業式が始まる前から泣いていた。

                 

                 ところが、じゃあ部活のユニフォームじゃいけないでしょうか?ということになると、これも「よろしくない」ということになる。卒業式の厳粛さと儀式の意義に照らし合わせて「望ましくない」ということになる。ぼくが「べつにいいんじゃないの」といって職員会で顰蹙を買った。親や教員としては「中学校の制服」は指導が一番ラクで悩まなくてもいいということになるが、最近は進学する中学校も違う子がけっこういるので、これもやっかいだ。「うちの子は私学受験に失敗したので、中学校の制服なんかとんでもない。合格した子の制服を見るだけで傷つく……」って冗談(これはけっこう本気の顔)で言われたこともある。……やはり「卒業式廃止、証書は郵送」だな(笑)。

                 

                 卒業式は心込めて子どもたちのための最後の授業なのだから、オカザキセンセみたいにいいかげんなきもちでやってはいけません。と、よくおしかりを受ける。いくらしかられても、ぜんぜんわかんな〜い!んです。もちろん、日本全国いろいろな卒業式があるから、みそくそいっしょにしようとは思わない。だが、それでも、卒業式はやめられないのなら究極簡便がいいと思う。

                 

                 閑話休題。袴をどうするかと各家庭でいろいろと論議することは確かにめんどくさい。親の意識やセンスも大きいし、「あの子だって着てるもん」「卒業式くらい着たい」という子どもの無邪気な声を無視するのもつらい。お金だってピンキリとはいえ負担だ。「他の服だってお金がかかるんですから……袴の方がセット料金で……」とほんとうに悩ましい。「先生がダメって言ってくれたらうれしいし、助かります」という声はよく聞くよ。(よくきくよ:回文だな)

                 ううむ、先生が悪者になるのかぁ……。でもなあ、親が子どもと話し合って解決しないと、これからもっと大きな事態・岐路が待ち受けているような気がする。

                 

                 袴を着ている子どもに「千歳飴を持たないのか、必要だろう」と言っても、ジョークにならないのだが、最近の袴は華美だよな。で、華美でいいじゃないかと思う。だって地味だったら着る意味がない……そう子どもたちは思っているような気がする。非日常的な袴を着ることで、ちょっとテンション上がるおもしろさに思春期前期の子は敏感なのだ。コスプレだってあったなあ、深いスリットの入ったものもかっこよかったよな、名古屋嬢はすごいんだぞ!いろいろと。男子も中学校だと白い制服とか、裏に金の刺繍の入った学ランとか……。

                 どんどんエスカレートしていく可能性はある。新自由主義的な文化の経済化である。

                 

                 卒業式の服装で思い出すのは、担任していた一人の男の子が、卒業式当日、朝、登校したとたんに家に帰ってしまったことがある。「みんなが、いい服をきていたから」というのが理由だ。彼の家庭はまずしく、新しい服など用意できるはずもなく、卒業式といえどもいつものちょっと薄汚れた普段着で登校したのだ。ところが、友だちはみんなそれなりにパリッとした、折り目のついたズボンをはいている。それを見て、自分がみじめになり帰宅してしまったのだ。結局他の先生の子どものはいていたズボンを緊急で調達して、家まで迎えに行き履き替えさせ、式に参加してもらったのだ。そんなことが40年前の時代にはあった。でも、ひょっとしたら今でもあるのだと思う。自分には見えていないだけで、多分。

                 

                 たった一日のことなのに、たった一日のことだからこそ。やはり、卒業式はできるだけ簡素化、できれば、やめたらいいと思ってしまう。卒業式の厳粛さなんてもう死んでいる。結局、学校のよどみなのだ。

                 

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                  3月11日(日曜日)ニイルの教育の原理を考えると……いうことを聞かない子どもたち

                  • 2018.03.11 Sunday
                  • 17:19

                   

                   ASニイルというイギリス・サマーヒルの創立者がいる。私が若い頃、いや、今もときどき読み直しているのだが、自由教育を実際にしながら多くの教育について思索し著した人だ。当時はフリースクールの先駆けと言われていたが、今となれば、フリースクールという概念では、ちょっとくくれないなあと思うようになった。

                   

                   全集など著作もいくつか出ているが、私がちょうど教員になった1976年に発刊された『クビになった教師』という本を、自分の仕事を思い出し、今を反省しながら、また読み直してみた。当時1976年4月に発刊されてすぐ11月に購入して読んだのだが、衝撃というより、「やっぱりな」という感じがしたことを覚えている。今再読しても「やっぱりな、ニイルはすごいな」と思う。

                   

                   ニイルはしつけを排し、子どもの自由を尊び、その結果、保護者の怒りを買い、免職となった。新任だった私も、たいしたことはやっていないのに、正直「クビになるかもしれない」と思っていた(笑)。クビになったら父親の仕事(旋盤工)をするしかないかなと思ってはいた。(幸い、軟弱でクビにならずに続けたけれど)そんな危機感を自分では持っていた。ニイルのような、真の子ども中心主義は、危険思想なのだ。今のような、「子どもは大切だ」「子どもの気持ちを大事に」は口先だけだから(私もその部類に入るか?)結局、無難なところでやっているにすぎない。

                   

                   もちろんニイルは理想主義者ではない。現実と常に緊張関係を持っているし、でなければ、サマーヒルの運営もままならなかっただろう。ただ、自分に信念を持っていても、それを絶対だとか普遍だとは思ってはいないと思う。微妙なバランスで過激(笑)なのだ。名作『問題の子ども』をはじめ初期の全集(全10巻)は8巻『自由は放縦ではない』とこの10巻『クビになった教師』だけ残してあとは処分してしまった。もちろん、新編集の『ニイル選集全五巻』はすでに以前購入済みなので大丈夫なんだけど。

                   

                   子どもがちっとも親(教師)の言うことを聞かないというとき、親は「親のいうことを聞くのが当たり前」だと思っているが、それが間違いだとニイルは指摘する。自分を尊重しない親のいうことなど聞く方が間違っていると断じる。隣のおじさんに頼まれて草取りをするけれど、自分の家の草取りをすることは嫌がる。それは、隣のおじさんは、自分の親と違ってちゃんと「お願いだ、草取りをしてもらえないかな」ときちんと頼むし、終われば感謝するからだとニイルは言う。だから、親子といえども対等な関係が必要なのだと。

                   

                   なんだか、本当に基本的な話なのだが、私は、納得してしまうのだ。教師をやっていて、子どもと対等ということはどういうことなのだろか?とずっと考えてきた。ニイルの事例は分かりやすいが、これだけではなく、その他にもたくさんの事例が挙げられている。だから、それほど単純でもないことが分かる。現場で子どもを相手にしていると、そのつどその場の状況や力の関係、お互いの気持ちやいままでの関係、そして、教師として何を大事にしているのかという原理がとても重要だと分かる。

                   

                   道徳教育や道徳論議、それに生活指導などが陳腐になってしまうのは、多分、私たち教師(大人)が陳腐だからではないかと思うのだ。ニイルは「教育は人生どう生きるべきかを考えることを教えること」だと言う。「人生の意味を考えることを教えるのだ」と。それは当然、子どものまわりにいる大人がどう生きているか、どう暮らしているかが一番大事なのだということだ。ニイルの言葉は厳しいなあと思う。

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                    2018/3/3 土曜日 心がざわつくこと と 椎名誠の本

                    • 2018.03.03 Saturday
                    • 12:17

                     今まで、時々だけれど、理不尽だなと感じることに怒ってきた。50歳までは怒ることが多かった。職員室で前に座っている女性の先生に「岡崎せんせいは、怒り出す十分前くらいにわかっちゃいますよ」と笑って、言われた。周囲の人は気づかないらしいが、確かに怒りがわいてくると、「ちょっと落ち着け!」と言う天の声がするから、しばらく、助走する(笑)。その同僚は鈍感そうに見えて、とても敏感で繊細な人だったから分かったのだろう。ま、いつも向き合っているわけだから。

                     

                     あるとき毎年やっていた知能テストに私は反対していたのだが、突然「今年ややめます」と管理職が言った。そのときは、なんだこのやろーと思った。「なぜやめるんですか?」と聞いたら、「名古屋市でそう決まりました」という。ばかやろーである。そのまま、そいつのところへ歩み寄り、「去年まで私が反対していたのは知っているよね、そのとき必要だ必要だと主張していたのはあんたらだろ。そのいいかげんさはなんだよ……とことん実施しろよ!」とだいぶ腹が立った。でも、声で怒りながらも、心の中心は冷めているので、暴力沙汰にはならない。

                     

                     50歳まではけっこういろいろと怒った。けど、それ以降はいろいろなワケがあって、怒り方が変わっていった。それはいずれ。で、ときどき、怒れることがある。しかし、自分が年上になってしまったので、「若いからしょうがないか」と思えることも多くなった。でも、やはり、間違っていることは間違っているので、そのことははっきり言うことにしている。だから、ちょっと嫌われるかな(笑)。

                     

                     理不尽だと自分が思うと、心がざわつくのだ。そのざわつきはいずれ収まるけれど、けっこう大事にしてきた。突然、椎名誠の本にそんなシーンがあったなと思って探した。

                    ありましたね。『新橋烏口青春篇』1987年新潮社164頁(文庫ではないです)あたり。

                     

                     会社へ入ってしばらくして主人公(椎名誠)はあまり好きではない上司たちに誘われて、お昼を一緒にとることになる。狭い店の中でみんななんとなく上司にあわせて「天丼」を頼む。しかし、椎名誠はメニューを見て穴子定食が食べたいと言うが、木っ端役人風の先輩が、「時間かかるよ、そういうの」といい、「ほら、早く早く。天丼でいいだろう」と言って天丼を頼んでしまう。そのとき椎名誠は「すこし、コメカミのあたりがつんと痛くな」るのだ。結局すぐに、「いらないや。めしいらない」とその食堂を出て行ってしまう。

                     

                     このあたりの描写は本当にいいなあと思う。たかが穴子定食なんだけれど、問題は無理矢理、かつ当たり前のように穴子定食を天丼に変えてしまう馬鹿な上司への怒りなのだ。体験しないと書けない話だ。こういうところにムカッとくる気持ちはすごくよく分かる……というか、「そだねぇー」なんてもんじゃねえぞ!。

                     

                     学校という職場で若い頃から、このいらだちがたくさんあった。朝の打ち合わせ、職員会、研修会議、学年会……いっぱいあった。一番最初は、職員で行く研修旅行と称する懇親会的旅行だった。当時は、出入り業者から受け取っていたリベートみたいなものがあった。それをプールしておき研修旅行費に足していた。で、新任だったボクはそれを知って「行かない」と言ったのだ。すると、集団で免責されないことに困った管理職に取り囲まれて、一緒に行くんだと言われ、一年目だけ行った。その後しばらくして、リベート問題が市全体をゆるがし、ボクも証拠の会計簿をコピーした。そして自腹で(あたりまえだ)行くことになった。すると、参加者が激減した(笑)。そんなもんです。

                     

                     細かいことかもしれないが、「変だな!」と思うかどうかは本当に微妙なその人の価値の枠組み次第なのだ。一方から他方を見れば「鈍感」だし、逆には「気にしすぎ」ということになる。ただ、やはり、まずいことはまずいのだ。学校の職員室が平穏平和になったのが、もし「怒らねばならないこと」に怒らなくなったとするなら、それは決して平和とか平穏ではなく、たんなる堕落でしかないのかもしれないなあと、ちょっと思う。

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